のびやかなるカタルシスへの誘い

海野弘

私が入って行った時、舞台はまだはじまっていず、席に座って待っているあいだに、私は眠りこんでしまった。ふと眼を醒ますとほの暗い洞窟に伏している一人の女が浮かびあがってきた。私は夢うつつのうちにアリアドネの紡ぎ出す迷宮に入っていった。

地下の踊りのとらえたもの

カルロッタ池田が動くとも動かないともいえないほどゆるやかに踊り、他のメンバーが白塗りの顔を百面相のようにしかめながら身をよじりだした時、暗黒舞踏のストイックな間[ま]が流れつつあるようであった。見る者にも耐えがたいほどの持続を要求する、ひきしぼられた間こそ、地下の踊りとしての暗黒舞踏がとらえたものである。それは時に、踊り手と見る者のがまんくらべのような場をつくりだす。踊り手が動かず、見る者が耐えきれず動いてしまうのである。

アメリカのダンサーが日本の空間を踊ったのを見たことがあるが、そこには暗黒舞踏の持つ間がまったくなかった。バレエやモダン・ダンスなど西洋の踊りの時間はつねに動いていて、絶対的な静止というものがない。だから日本的な間を表現しようとしても、それは動きのあいだに一瞬あらわれるだけで、決して静止してはいないのだ。

暗黒舞踏においては、静のうちに動があらわれる。東洋的な座禅やヨガの時空の系譜をひいているのだ。このような、大地に深く根ざしたような静止をアメリカのダンサーは耐えきれずに、軽々と跳躍してしまうのであった。逆にいえば、暗黒舞踏は跳躍をもっていないのである。内在的な静止した間に固執しつづける踊りは、単調さと主観的な不透明さへの危険をはらんでいる。肉体の軽やかなカタルシスをもたらさないのである。

60年代にカウンター・カルチャーであり得た暗黒舞踏は、このところそのおどろおどろしい単調さの袋小路におちこんでいるように見える。スキャンダル性に風化し、苦行僧めいた重苦しさはあきられだしている。

しかしこのような危機の状況において、新しい空間表現の流れが胎動しつつあるようである。アリアドーネの會の《ツァラトゥストラ》(草月ホール 1980410日~12日)はその過渡期の様相を明らかに示す舞台であった。それはまず慣れた暗黒舞踏のコレオグラフィーのうちにはじまり、私は安心してそれに入っていくのであるが、しだいに混沌としたある新しいスペクタクルの空間のうちに導かれ、いつかおどろおどろしい舞台へのこだわりが霧散してゆき、のびやかなカタルシスに誘われるのである。カルロッタ池田が暗黒舞踏の不透明な重苦しさから、ある透明な深みと軽みのある自由さへと到達しているのに私は感動した。

おどろおどろしさとの混淆

スキャンダラスな猥雑性と道化性を持っていたアリアドーネの會はある深みを持つようになっている。大駱駝艦豊玉伽藍のこけら落しに出た時のアリアドーネの會はフェルナン・クノップの《スフィンクス》のポーズのように舞台に腹ばいになって上体を起こし、世紀末的な美しさを見せていた。《ツァラトゥストラ》でもニーチェの世紀末的な夜を幻視させようとしたようである。この舞台は、かつてのおどろおどろしさと新しい、普遍的な透明さとが過渡的にまじりあっている。

《ツァラトゥストラ》という主題もまたこのような過渡的な価値をもっている。私はこの主題にある点で否定的で、ある点で肯定的である。もしこの題にこだわるなら、アリアドーネの會はその表現に失敗している。私はこの舞台に感動したが、それが《ツァラトゥストラ》である必然性は感じなかった。女性のみによってこの主題を表現するのは困難ではないだろうか。この題の選び方に、かつてのおどろおどろしさの残滓が感じられる。アリアドーネの會はすでにしなやかな舞台をつくる身体性を獲得しているのであるから、ことばもまたそれにふさわしく選ばれるべきである。

しかしもう一方で、《ツァラトゥストラ》が世紀末のイコノロジーとしての踊りのイメージに充ちていることも確かである。「舞の雅」「後の舞の雅」「沙漠の娘たちの間に」の章では、舞踊が重要な象徴として使われているから、踊りのテーマとして魅惑的であることも否めない。とくに「沙漠の娘たちの間に」の章は、アリアドーネの會の舞台を見た後で読み直すと、ひどく新鮮に意味を開示するようであった。そこでは東方の踊る女たちの、歓喜に充ちた生の流れが、ヨーロッパ的知性に囚われた生に対比されている。「なんじら声なき、なんじら想いに充つる猫に似た乙女たちよ」。そして私はこの東方の踊子、すなわち「スフィンクスにとりまかれて、ここに坐している」のである。アリアドーネの會はあくまで東方の踊り子であり、ツァラトゥストラがその死を宣しているヨーロッパの彼方にいるのである。

ツァラトゥストラ=男根

アリアドーネの會のコレオグラフィーにある、ひざを割ってしゃがむポーズ[相撲の立合いの型]などは東方的なものである。西方の身体を持つブリジッドの異質な動きは、アリアドーネの會全体としての東方性を逆によりはっきりと照射している。カルロッタ池田とアリアドーネの會の獲得した表現力の深みをさらに楽しく見せているのは室伏鴻などのブレーンによる演出である。自転車乗りによるサーカス的空間、つくりものの巨大な牛の出てくる土俗的空間、そして轟然と降りそそぐコークスの雨。仕掛けやからくりの好きな私はすっかりうれしくなった。室伏鴻の夢みる、サーカス的、キャバレー的、スペクタクルの空間が予告されている。

そして舞台中央にぶらさがっていて、途中で屹立する巨大な柱はなんだろうか。あれこそツァラトゥストラ=男根なのであろうか。とすれば、私が不在であると思っていたツァラトゥストラはこの舞台にずっと登場していたのかもしれない。

May 26, 1980
『日本読書新聞』

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