Ko Murobushi Exhibition

2025.7.30
シンポジウム

断片化の跡

髙山花子

1. はじめに

1-1. イントロ

みなさんこんにちは。3年ほど前から、今回のインプルスタンツでの展示企画については、可能性があるということを聞いていたので、とうとうプロジェクトが実現して、とても嬉しく思っています。きょうがトークセッション、シンポジウムの三日目なので、みなさんも展示を楽しんだだろうし、あるいはすでに映像もご覧になったかと思います。

さて、きょうわたしがお話したいことはシンプルで、ダンサー室伏鴻には、言葉の次元があったということです。それもかなり強く、読むことだけでなく、書くことにも現れていたということです。室伏鴻はとくに1980年代以降、ヨーロッパを中心に、そしてソロ活動を主軸として、あるいはワークショップ活動を通じて、国際的に、自分自身のダンスを追求していた。おそらく、土方巽との遭遇が知られているので、彼からの影響、あるいは舞踏というカテゴライズを想像し結びつけたくなるのではないかと思います。しかし、そんな単純なものでは済まない次元が、彼個人によっては、きわめて執拗に探求されていた。その証とも言えるものが、1970年代後半から、亡くなる直前の2015年6月まで、断続的に書き継がれてきた、日記とワークショップメモというテクストです。ダンサーにとって、言葉とは、さらには思索とは、いかなるものなのか?とりわけ、身体によって、言葉とは異なる次元を追求しているとき? 言葉は、ダンスの説明なのか?ダンスは、言葉の表現なのでしょうか?室伏鴻にとっては、そうではありませんでした。奇妙な齟齬が、ダンスと言葉のあいだにはある。ある意味で、パラレルに、断続的に、両方が続いていた。そのことを今日はお話して、問題意識としてみなさんと共有したいと思っています。

1-2. 基礎情報

さて、今回の展示カタログには、室伏さん自身のテクストがひとつ収録されています。みなさんはこの青い冊子をすでにご覧になったでしょうか?ここにはひとつ、彼のある程度まとまったテクストがあります。それは土方巽の「肉体の叛乱」にかんして、フランスの哲学者であり翻訳家であったフィリップ・ラクー=ラバルトの「出来事のシンギュラリティ」に言及をしたりして書かれた、極めて哲学的といってよい短いテクストです。そのような哲学的な背景をすぐさま見つけることができる。叫びを中心に、言葉を舞台で必ずしも排除していないとはいえ、肉体そのものを全面に出す彼の舞台からは、想像がつかないくらい、彼の思考には言葉の強度がある。

2015年に彼がメキシコで突然亡くなったあと、Shyができあがりました。そこにはもちろんさまざまなマテリアルがいまも保存されており、そして単なるアーカイブではなく、ある種の放浪するアーカイブ、そして訪れる人にとってのtransitとなるような仕掛けがなされているのですが、おそらく自分を含めて、初めて訪れる人たちが驚くのは、その本棚の様子です。いわゆる20世紀のフランス思想を中心に、ドゥルーズやバタイユ、フーコー、それからわたしが専門としているブランショといった、哲学書の日本語翻訳がずらりと並んでいる。それは圧巻であり、初めて3年前に訪れたあと、わたしはまもなく、2018年に刊行された『集成』という、日記を中心とする遺稿集を読むようになりました。

2025年現在、世の中はSNSをはじめ、インターネットを介して人々の言論空間が出来上がり、日々の他愛のないつぶやきは、即座に世界中の人びとの目に公開される。そのような時代になっています。ですから、わたしはみなさんがジャーナルという単語を聞いて、いったいどのようなイメージを抱くのか、それはかなり多岐に渡るだろうと思います。その上で、室伏さんの日記は、日々のテクストは、ほとんどクロニクルとよってよいほど習慣化されていながら、ほとんど身の回りのことが書かれていないということに特徴があります。もちろん、あとでも少し触れますが、生活の話はある。しかしほとんど大部分は、ダンスをめぐる思索に割かれている。それが特徴です。しかも、生前に人に見られることはなかった。同時代的に読まれるために書かれたものではなかった、内奥の、秘密の日記であるということです。

昨秋に、同じく書き継がれていたワークショップノートの一部も冊子として日本語版が刊行されましたが、それもおなじく、人に公開されることはなく、手書きで、ノートブックに綴られていたものでした。室伏鴻アーカイヴのウェブサイトで表紙の写真を見ることができます。百冊を超えたりはしませんが、それでもそれなりにボリュームがあります。つまり彼にとって、読むことだけでなく、書くことは、踊ることとおなじく、生の一部になっていた。

2. Faux Pasについて/断片的であること?

2-1. 日記に見られるFaux Pas

さて、今回の展示のタイトルのFaux pasは、英語に訳するとMisstepであり、間違ったステップのこと、あるいはフォークの使い方を違えるようにマナー違反を意味します。フランス語ではfauxがfalseであり、pasがstepを意味します。そしてまた、何かをしてはならないという禁止の命令の際に、わたしたちはil ne faut pas と言いますので、禁止の意味合いがとても強い言葉です。リトルネロのあと、最後のソロ作品のタイトルがFaux pasと名付けられているのですが、室伏さんは日記やWSノートにもっと前からこの言葉を使っていました。由来はかなり明白で、モーリス・ブランショの1943年の評論集『踏み外し』を意識している。実際、蔵書には、初期の日本語の二つの異なる翻訳の両方が残されていますので、フランス思想の語彙として知っていたことはたしかである。ちなみに、ブランショの文脈では、後に1970年代に、侵犯できないにもかかわらず、名指すことはできる「外」へと踏み越える「欲望」として肯定されているのが、「踏み外し」でした(このことは去年の11月にこのプロジェクトのシリーズの一環で、越智さんと竹重さんとお話しました)。

室伏さんの書いたテクストでは、1980年代から、この語が見られます。たとえば、「もともと踊りは、天国と地獄の境目の勾配にあって、どっちにもつかぬ途中の徘徊である。〈よろめき、faux pas〉といった言葉もある。また、「歩くこと、それは行方をくらますこと、行方不明になること、踏み外し、逸脱することなのだ」という一文があったりする。集成に収録されていないものだと、1985年の日記に、「「舞踏」とその踏み外し/舞踏/その踏み外しに於て舞踏者であること」というフレーズもある。室伏さんの書いたものにおいては、何度も何度も、自分自身の作品はそうですが、ダンスそのものを問う姿勢があることが大きな特徴といえます。その際に、さまざまな哲学者の言葉や概念が、大きなヒントになっている。

2-2. 断片である?

しかし、そのように、たとえばfaux pasをめぐる記述を彼の残した日記から見つけることはできるのですが、このとき、それではこの日記は資料体=コーパスとしてどのように扱えるものなのかという問いが浮上します。すなわち、これは、結果的にわたしたちが読んではいるけれども、そもそもとして『集成』はごく一部のテクストの抜粋をパソコンに打ち込んで編集したものである。そして元々の手書きのノートは、当然、人に読まれることを第一の目的として書かれたものではなく、日付はあるとはいえ、なにかしらの「主張」や「意見」を抽出することは、極めて困難であると言える。端的にいえば、ほとんどが「断片=フラグメント」なのです。それがノート一冊のボリュームと、ある程度の日々の連続性、日付によって、まとまりは持っているが、書かれている内容そのものには、論理的な一貫性は、率直に言ってない。だから、ある一文だけを抽出すること、あるいは一つのテーマで検索的に読み解くことは危険だと言いましょう。さまざまな主題があるからこそ、いくらでも断片を組み合わせて、あたかも思考の体系があるかのように読み解くことはできる。しかし、コーパスの自然な性格は、そのようなものではない。集成をはじめ、断片をさらに断片にし、抽出したものであり、なおかつ、元の文脈を離れたというわけでもない。なぜなら、そもそも元の厳密な文脈がいつもあったとは限らないからです。それが彼のテクストの奇妙な特徴になっていると言えるでしょう。つまり、それぞれのテクストは、特定の日付で特定の場所で環境に応じてもちろん書かれたものであるにもかかわらず、ときには室伏鴻という書き手の固有名詞さえ、ほとんど姿を消すような、思索の次元を形成しているからです。そこから、このように言ってみたいと思います。これらはたしかに断片である。しかし、根源的に、室伏鴻そのものが断片的であったと。そして彼の書く運動は、消え去るダンスの挙動と同じく、一瞬一瞬、むしろ断片化を志していたのだと。だから、わたしたちがたとえば目にしている言葉たちは、断片であるというよりも、彼の断片化の痕跡なのではないか。

3. ワークショップノートについて

3-1. ウィーンの記憶

ここまで、日記の話をしていましたので、日本語版の冊子が去年の秋に出た、ワークショップメモの話をしたいと思います。みなさんがこれを読まれているのか、わたしは知りません。とにかくおもしろいのは、日記とあまり変わらないということです。ばらばらであることに一貫性がある。もちろん日々の状況や、WSじたいの様子は意外と具体的に書かれている箇所もあります。たとえば1993年の7月26日、月曜日、Wien Tanz Wochenの記録として、ウォーミングアップのあと生徒たちと一緒に、どうやって水に形を与えられるのか、身体が水の静止を運べるのか、そんなことに取り組んだことが書かれている。あるいは1996年2月7日、ワークショップ三日目のImPulsTanzの記録では、「おそくまで寝るが、1時パンを買いに降りる。ウィーンは、寒波。市電でTanz Hotel」なんて記述もある。2012年7月16日は、同じくImPulsTanzでのワークショップの記録があり「4時まで寝ていた。ArsenalへTaxiで。40人の生徒 多すぎる。減っていくのだろうが RioとAdjaに多すぎるという。Taxiで帰宅。Pizzaを買って ビール」とあったりする。彼はビールが好きだったとわかったりする。しかし、それらはごくごく一部であり、大部分は、ダンス自体を問うたり、動きそのものを考えるものになっている。場合によっては、ほとんど現実の可視的な動きと対応するとは思えないようなことが書かれている。

3-2. 踊ること、生死

たとえば、1993年の7月26日のワークショップで水が問題となったとき、彼はどうやって壊れやすい集中の一瞬を掴めるのか、時の問題として思考している。「その同時! その時間への挑戦 時間への 無時間の侵犯/その侵犯性において この集中とは 暴力的なのだ。/しかし この無時間から無時間への移りゆき 移動は/時間との 際 境に接して為される。/それは 縁 境にふれつづける」。そうして彼はどのように水面が反映するのか想像力を言葉で働かせてゆく。はかなく非日常的な時間と場所への熱望です。そしてそれは、死の問題を包み込んでいる。先ほどの1996年2月には、即興での変容をめぐって「死という抽象性 へ と すべてのカタチは 出てゆくのだ/崩壊し カタチを奪われるものも 同じく 死という 連続するものへ 無限へと/結節-連結されて そのカタチを失うであろう。/(抵抗とカタストロフのvariation 連続変化)」と書かれたりする。すでに舞踏はおろか、ダンスさえもその前提条件が彼の中では自明ではなくなり、たえず問われている。2005年のToursでのWS memoでは、「走る→うつくしく走るのでも 速く走るのでもなく 踊りになること とは/倒れる/這う→四つ這い/振る→/ふるえる→ケイレン/全てを「踊り」へと変形する)」とあり、歩行や走行、震えといった動きや様態と共にダンスの定義が問われている。「ダンスの力とは 何なのか?」(2005 ImPulstanz)というふうに、自明ではないものとしてのダンスが思索されている。そして、2005年のImPulsTanzでは、「踊るためのWSではなく/踊らない為の「WS」を/ダンスとはなんであったか/驚きであり「発見」だ/自己が他者である事の/それは「絶句」である」として、はっきりと踊らないことが目的とされている……。「境界上の 危機的なダンス/死へ触れながら 死なず/生へ触れながら 踊らず/踊らされずに/踊らされること/踊らない 踊り を 踊ること」(2014 Colombia)。

4. 結び

駆け足ではありますが、室伏鴻に繊細でありながら強力な言葉の次元があることをこれまでお話してきました。一方にはひたすら身体の次元でダンスをしている室伏鴻がいる。もう一方には、ダンスそのものを言葉によって考えている室伏がいる。どちらの領域でも、彼にとってのダンスは、いつも未完成で、完成していなかった。そしてその形のなさ、その所在のなさじたいが、ひとつの足場になっていた。少なくとも、型にはまらないことを、彼は言葉でたしかめつづけていた。書いている時間の思索は、現実のWSや、さらには舞台と往復していた。パラレルでもあるし、かといって交わらないわけでもない。断続的に、言葉の次元の生がぽっと、空白の時間に、おそらくはホテルでの休息中に、あるいは旅のまにまにあらわれては断絶し、踊りがあり、そして再開ではなく、また断片的に書くことが現れる。読むことと共に。統合されることを拒む、あらかじめ切り取られた、孤絶した断片化の運動があったということ。以上が、きょうみなさんと共有したかったわたしのスケッチになります。ありがとうございました。

Profile

髙山花子Hanako Takayama

髙山花子 東京大学東アジア藝文書院(EAA)特任講師。専門はフランス思想。著書に『鳥の歌、テクストの森』(春秋社、2022年)、『モーリス・ブランショ——レシの思想』(水声社、2021年)、訳書にジャック・ランシエール『詩の畝』(法政大学出版局、2024年)がある。