Ko Murobushi Exhibition

2025.7.28
シンポジウム

感覚の測震者

堀千晶

 想像すること。宇宙にはまだ何もないし宇宙じたいもない。あるいは、小さな最小身体としての一つの点だけ。ほかには何もない。震えるひとつの点、いまにも動きだそうとしているけれども、まだ動いていないひとつの点。それ以外には何も存在しない光景。孤独な身体だけ。灰色の点だけ。
 その場で震えている点、潜在的な運動しか持っていない点、その点がふいに動くと、その動きにそって線が描かれる。直線もあれば、曲線もあり、蛇行する線もある。点の動きは決まっていない。どれぐらい動くのか。有限の動きか、限りなき動きか。
 つぎに、その線が様々な方向に動く。すると面ができあがる。線の動きかたも決まっていない。フラットな平面かもしれないし、球面かもしれない。ねじれて歪んだ面かもしれないし、もっと奇妙な面かもしれない。たとえば大地の褶曲、海面の無数の波、海底の陥没、鍾乳洞。
 空間は、点、線、面、物体の動きから生成してくる。それぞれの空間が、そのたびごとにつくられてゆく。一回かぎりの空間。
 こうしたしかたで空間の問題を描きだしたのは、ライプニッツとパウル・クレーである。トポロジーの創始者のひとりとして知られるライプニッツの空間概念には幾つかの特徴がある。
 第一に、空間はそのなかに存在しているものから切り離せない。物体・身体から独立した空間は存在しない。第二に、あらゆる存在しているものは運動している。あらゆるものが連続変化のなかにある。静止とは、最低速度での運動であり、潜在的速度・方向のみを持つ運動にほかならない。知覚できないしかたで、その場で動いているといってもよい。第三に、空間は、運動とともに生成する。しかも、そのたびごとに特異なものとして生成する。
 ところで、ライプニッツの哲学には、「十分な理由の原理」と呼ばれるものがある。この原理にはふたつの側面がある。すなわち「なぜ無ではなく、何かが存在するのか」と、「なぜこれであって、他のものではないのか」、である。なぜ私の身体はこの身体であって、他人の身体・物体のようではないのか。なぜ私はこの私であって、他のようでないのか。なぜこの壁は銃弾の痕のような穴が無数に開いているのか。なぜこの運動はこの運動なのか。ライプニッツは、身体を「この」身体として、各瞬間につくりだし、生成している原因を考え、理解しようとする。彼にしてみれば、個々のものには、その存在の唯一性、「このもの性/此性」があり、その概念がある。そこに向わなければならない。
 くわえて彼は「十分な理由の原理」を、空間にも適用する。なぜ空間が無なのではなく、ある空間が存在しているのか、空間はなぜ「この」空間であって他の空間ではないのか。彼は普遍的な絶対空間、どこでも同じであり続ける空間という概念を否定し、ひとつないし複数の身体・物体の運動とそれらの関係とともにつくられ、変容する空間があるとする。それぞれの空間の「このもの性」である。
 それぞれの身体・物体や運動は、「このもの性」を持つ。すなわち、この地面の、この身体の、この運動によってつくりだされるこの空間。そのたびごとにたったひとつ、独特な空間の生成がある。
 ところで、身体の運動・軌跡を、ライプニッツは「トラクトゥス(tractus)」と呼ぶ。「ドローイング」という意味のラテン語である。すべての身体・物体が動き、空間を描く。すべての身体・物体がドローイングを行っている。そのたびごとにひとつしかない空間のドローイングが行われる。「ドローイング」には「引きだす」という意味がある。井戸から水を引きだすように、身体・物体はいわば潜勢的なポテンシャリティから、運動や空間を引きだしてくる。どのような運動や空間が引きだされてくるかは、まだ決まっていない。身体・物体は、潜在性にとどまりながら、じっと震えている。
 ライプニッツの挙げる例はきわめて興味深い。彼は数学論のなかでこう問う。あるアーチが爆発しながら、地上に向って倒れてゆく。それは、どのような面を描くのだろうか、と。
 爆発。無数の粉塵、大きさを異にする数々の破片、互いに衝突しあう砕け散った微粒子の群れ。それらの描きだす軌跡が、空間をつくりだす。アーチという物体のアイデンティティを粉々に吹き飛ばしつつ、しかし、その粉塵、その破片すべての軌跡が空間を描きだす。これら無数の物体の動きがつくりだすものの外に空間は存在しない。
 どこかに狂気を秘めたライプニッツの構想する運動や空間は、決して正則的なもの、規範的なものではなく、ときに破壊的ですらある。またライプニッツは、可能世界論で知られるが、可能世界のなかの空間は、私たちの生きる世界の空間と同質のものであるとはかぎらない。ライプニッツは、無数の可能世界を想像したように、無数の可能な空間をも想像した。空間は3次元とは限らない、2次元や1次元かもしれないしし、100次元・1000次元かもしれない。アリスの訪れた国のように不思議なしかたでねじれた空間かもしれない。
 ライプニッツやパウル・クレーのテクストは、ダンスのことを想起させる。ダンサーは、運動によって空間を生成する。しかも、そのたびごとにたったひとつしかない空間をつくりだしている。腕を動かして静止する、その指一本が宙空で震えている。そのことが空間をつくりだす。
 あるいは身体の周囲で空気が動く。空気は物体であり身体がある。空気はゆっくりとあるいは急激に、水平にあるいは渦を巻くように攪拌される。空気の動きじたいは見えなくとも、ダンサーがつくりだす空間は、その身体を飛びだして、空気とともに外にまで広がりだす。ふいに空気が重たくなる。いまや身体を取り巻く空気は液体である。ダンサーはそのなかで踊る。波動が周囲に広がる。空間がドローイングとともに立ちあらわれる。反復はありえない。ダンサーはみなそのことを知っている。
 ライプニッツやクレーにおいて興味深いのは、物体の運動がつねに次元数の変更を伴っていることだ。次元をもたないひとつの「点」から、1次元の「線」が生まれ、1次元の「線」から2次元の「面」が生まれるというように。3次元の物体が動けば、4・5次元が開かれる(それを表象することはできない、しかし表象しえぬものを感じることはできるだろうか)。
 つまり、運動は、同じ次元のなかで起こるのではなく、次元性じたいの移動、異なる次元へのシフトを伴うということだ。新たな次元の生成という意味での運動であり、変化である。身体・物体の運動が新たな次元を切り開く。その次元はダンスにおいては、空間的なものだけでなく、感覚の次元でもあるだろう。動きが新たな感覚の次元を開く。ある感覚が開かれてゆく時と空間の体験、それはいかなるものだろうか。
 くわえて、ライプニッツのプロセスを逆にたどるなら、次元数は拡大していくだけでなく、収縮し凝縮していくことにもなる。爆発ではなく爆縮。つまり、できあがった空間を、空間以前の非‐空間に戻すような逆向きの運動のことである。宇宙のなかに何も存在しない、宇宙の沈黙への回帰のようなものだ。これを空間の「ドローイング(drawing)」との対比で、「ウィズドローイング(withdrawing)」(撤退)と呼んでおきたい。ドローイングによって形成された空間から空間以前へ。描かれた場所から非‐場所へ。
 空間は、どれぐらいの速度で広がり、どれぐらいの速度で爆縮するのか。あっというまに生まれては、すぐさま消えるのか。それとも緊張を保ちながらゆるやかに持続するのか。空間の拡張と凝縮、空間のドローイングとウィズドローイング。その交替のスピード。おそらくダンスにとって本質的な問いのひとつである。
 こうした考察は、すでに室伏鴻とともにある。室伏鴻のダンス、そして彼の著作とともに考えてみたいのは、震える身体の動きと、ダンスによる空間の生成、変形、消滅のことだ。ただし、室伏鴻がつくりだすのは通常の空間ではない。彼のコレオグラフィック・スペースはクリティカルなもの、つねに危機と背中合わせのもの、エッジに佇むものだ。『室伏鴻集成』冒頭に収められたテクスト「鎖金令」(1975年)のなかで、彼はこう書いている。「大男が街角に立てば、それは、空間の錯乱する予兆なのである」。
 彼は空間の逸脱、異常に着目する。空間のディスオーダー(秩序破壊)であり、それが生成変化を招き寄せる空間となる。そこでは巨人がドワーフとなり、ドワーフが巨人となる。女が男となり、男が女となる。くわえて彼は空気、呼吸に言及する。「獣が呼吸のなかにあるように、呼吸が獣のなかにある。悲鳴を形どれ![*1]」 呼吸のなかに獣が棲んでいる。呼吸とともに、悲鳴があがる。人間の声か、動物の声かもはや識別できない。
 彼はボイス・パフォーマーでもあった。踊りながら叫んだり、ユーモラスなことをいう。緊張と弛緩。漂うことと切断すること。笑わせ、沈黙させる。声にも音声にも音楽にも物体性・身体性がある。ジョン・ケージめいた声は、どのような変身を招き入れるのか。あるいは、あの叫びはどのような切断をつくるのか。あるいは、はにかんだように照れ笑いする彼の声の響き。
 室伏にとって、「獣」になることは一貫して重要な問題だった。1980年代にパリで室伏の舞台の照明をしていたマリー゠クリスティーヌ・ブランディによれば、「ダンサーの身体を昆虫や鉱物に変形する」よう、室伏は彼女に依頼した。おそらく室伏は舞台の床や壁も、そして光も、別のものにしたかったはずだ。昆虫や獣や鉱物に近い何かに。もちろん光も一箇の物体(身体)である。それが異様なものとの出会いを招き入れ、生成変化への道を開く。たとえば、動物になること、鳥になること(鴻=巨大鳥)。1993年のインプルスタンツに参加した際の日記にはこうある。

鳥として生き、鳥でないこと。
鳥と成り、そして同時に鳥ではないということ。
覚醒的な鳥を生きること。
鳥と人との間に出てゆき、そこに、鳥+人間的な空間、時、をひらくこと。
その時〈鳥〉は比喩であることを止めて、未だ未決定の、鳥でもなく、人でもないものの実現、出現の媒介的なもの、橋的なものとなる。[*2]

 室伏にとって、何ものにも帰属しないものになることはきわめて切実なことであった。無‐帰属性は与えられるものではなく、勝ち取られなければならない。どのようなサイドにもつかず、「アナーキー」であること。彼は、世界が、空間が秩序づけられる前の状態と戯れようとしている。ダンス空間において、身体とともに、身体のなかにアナーキーを生成すること。

いかに肉体のアナーキーを解き放つか。〔……〕
肉体 それは 絶望的な
ア・トピック ユートピアであるだろう。
〈非・場所〉
〈非・人称〉の
瞬間という 時間の外
死 くりかえす死を
生きることができる身体[*3]

 ニジンスキーにおけるスパイラルとは、神による統制を受ける前のエネルギーのアナーキーである、とも彼はいう。デミウルゴス以前の世界である。空間は「捩れ」なければならない。

〈平面と捩れ〉がここにあるのだが、そして〈螺旋、スパイラル〉が私たちのアクシス=軸に、地熱のように、地球の磁気みたいに絡みついて、それは二匹の大蛇のようなのだ
が・・・だからそれは交尾する二匹の、交接する混成・婚姻と・・・
螺旋 スパイラルの動き=ダンスには、だから、カオスと生成の力が、神からの統御、統制を受ける手前の、エネルギーのアナルシ=アナーキーのままに放り出されてあるのだ[*4]

 室伏にとってこうした空間の錯乱は、歴史的、文化的、政治的なものでもある。たとえば昨日(2025年7月28日)、カティア・チェントンツェさんは、日本の歴史的文脈について印象的なお話をされた。その際に話題にあがった「即身仏」が盛んであった東北地方は、一定の意味を帯びている。東北は京都の中央政権にとっての異国、外国であり、中央政権にまつろわぬ者たちの住んでいた場所である。また室伏の注目する宗教的要素は、中央権力が流布させ利用した統治装置としての宗教(国家仏教、国家儒教、国家神道)ではない。室伏鴻は、日本的なものを否認せず引き受けると繰り返し述べているが、そのいっぽうで彼が着目するのは、「日本」にとって周縁にある流謫するものだ。
 ここではさらに室伏の1977年のテクスト「常闇形(ひながた)」を見てみたい。このタイトルを翻訳することは困難をきわめる。多重の意味が折り重ねられているからだ。
 まず、「ひな(鄙)」は、「都から遠く離れた場所」をさす。古代日本の政治的な中心地にとってのアウトサイド、アウトランド、荒地ということである。さらに室伏は「ひな」を「常闇」と書き換える。すると「ひな」は、「永遠の闇(エターナル・ダークネス)」となる。アウトサイド、かつ、エターナル・ダークネスである。
 また「ひながた」は、「小さな模型・模造物(シミュラクラ)」という意味をもつ。現代日本語で「ひな(雛)」は、「人形(ひとがた)」、つまり、人間のシミュラクラである。くわえて、「ひな」には「鶏の子供(雛)」の意味もある。鳥、人間ならざるものの子供である。くわえて「ひながた」には、模型のもとになる手本、原型という意味もある。模型(シミュラクラ)であり、かつ、その原型(マトリクス)。
 それゆえ、室伏鴻のいう「常闇形(ひながた)」という語のなかには、〈エターナル・ダークネス(常闇)=アウトサイド(鄙)=非人間(雛)〉の〈シミュラクラ(模型)=マトリクス(原型)〉といった意味がもつれあいながら、駆け巡っていることになるだろう。ひとつの意味に落ち着くことはない。室伏鴻は「ひながた」を「常闇形」へと書き換えながら、こうした多層的な錯綜を発見したのではないか。彼は「ひな」や「ひながた」という語をいったん溶かしたうえで、別のかたちにつくりかえ、鍛えあげたのである。
 1996年のウィーンでのワークショップ・ノートから引用しておきたい。

皮フ。
内側に外側があり
外側に内側が連続し
ゆるやかな、あるいは荒々しい差異のプラトー・力の層が折り重なって、異様な地形、地勢をつくっている。
連続変化・変形・variation continue。
われわれは、すでにいつでも宇宙というもの(無限の)ひとつのマトリクス・原形なのであった。〈ひながた〉である。
それがわたくしの「木乃伊」である。[*5]

 室伏鴻は、はじめから一貫している。
 彼はたえず存在のエッジとアウトサイドに留まろうとしていた。すべてが何ものでもなくなる場所で、ひとつの身体であること。ただ一粒の存在へ。
 しかし、エターナル・ダークネスを象ることなどできるのか。あるいは、無限を象ることなどできるのか。あるいは、悲鳴は? 闇は闇。永遠に暗闇である。模造しようにも、何も象られることはない。しかし、象ることの限界において、彼は踊るかのようだ。
 室伏鴻の動きには準備動作がない。室伏鴻は準備動作を削ぎ落す。予期できぬまま、ひとつの動きがふいに訪れる。予期できないだけに限りなく速い、どれほど緩慢な動作であっても。ふいに倒れる。身がよじれる。痙攣した足の指を中空に一本さしだす。宛先もないままこわばった指。大地のなかに嵌入させるかのように背中を折り曲げる。あらゆる動きからすぐさま撤退し身を隠す。震える時のエッジにあやうく身を持しながら。また始めるために。すべてをまた始めるために。

  • 1.『室伏鴻集成』河出書房新社、2018年、p. 21.
  • 2.『室伏鴻集成』p. 171.
  • 3.Ko Murobushi, Workshop memo, Shy Books, 2024, p. 71.
  • 4.Workshop memo, p. 91.
  • 5.『室伏鴻集成』pp. 202-203.

Profile

堀千晶Chiaki Hori

仏文学者。著書に『ドゥルーズ 思考の生態学』(月曜社)、『ドゥルーズ キーワード89』(共著、せりか書房)、訳書にジル・ドゥルーズ『ザッヘル゠マゾッホ紹介』(河出文庫)、ロベール・パンジェ『パッサカリア』(水声社)、ダヴィッド・ラプジャード『ちいさな生存の美学』(月曜社)など。