室伏鴻の踏み外し:従属的身体からユートピア的身体へ

はじめに
最初に、結論の一部を述べる。
室伏鴻は私たちの鏡である。
室伏鴻は私たちの死体である。
室伏鴻は私たちの鏡としての死体である。
それゆえに、私たちは私たち自身の死体のありかを、室伏鴻によって知ることができる。
それは私たちにとってのユートピア的身体である。
私たちはユートピアとユートピア的身体を明確に区別しなければならない。
室伏鴻は、多様な可能性に満ちている私たちの身体を映し出す鏡としての死体である。
私の本日の発表は、室伏鴻の「踏み外し」についてである。なぜ「踏み外し」が重要なのか。モーリス・ブランショが見てとったように、それは制度の挫折だからである。ブランショは文学という制度が挫折する瞬間を注視していた。なぜなら、その時にのみ、文学は文学性に達するからである。ダンスについてもおそらく同じことが言える。少なくとも室伏はそのように考えていただろう。ダンスは制度である、と同時に、制度としてのダンスは挫折しなければならない。それはまたこのように言い換えることもできる。身体は制度である。と同時に制度としての身体は挫折しなければならない。そのためには「パ」ではなく「faux pas/miss step」が必要である。そして、その結果、私たちは自身の身体のうちに「ユートピア的身体」を発見するだろう。
1│ダンスと従順な身体
これから私は、まずダンスが制度になった歴史を振り返ってみたい。それは、私たちの身体が「従属的な身体」「従順な身体」になる歴史である。私がここで想定している一つの歴史的ターニングポイントは、17世紀にある。ルイ14世による王立舞踊アカデミーの設立と、コレオグラフィという概念の誕生である。
1662年、「パリ市における王立ダンスアカデミー設立に関する王の開封勅書(Lettre patentes du roy, pour l’etablissment de l’academie royale de danse en la ville de paris)」には、王立ダンスアカデミーを作った目的が書かれている。引用してみたい。
ダンスは身体を養成する上で最も堅実で最も必要なものの一つとして認識されてきたが、身体に対して、とくに、軍隊の身体に対して、完全に何事かを行使する上での重要で自然な配置を提供する。それゆえに、ダンスは我々の考える高貴さを獲得するために、最も有効かつ有益なものの一つである。それは、戦時下の軍隊においてだけではなく、平和時のバレエの娯楽においても私たちの身近にある栄誉あるものなのだ。
アカデミーという国家的機関によって、ダンスが教育されることになった時、ダンスは、戦争時においては戦う身体を訓練することに用いられ、平和時においては舞踏会における社交する身体を訓練することに用いられた。ダンスは、国民の身体を作り上げる道具となる。この場合、国民の身体は王の権力に対する従順な身体であり、臣民の身体である。
ミシェル・フーコーは17世紀フランスの兵士の身体の訓練を例に取り、そこに「規律訓練型権力」を見出した。身体の動かし方や止め方、姿勢などを細かく指定することにより、農民の身体を兵士の身体に変換する。その時、画一的で均質的で、統制的な軍隊が出来上がる。この身体に対する権力の微細な介入を、フーコーは「ミクロ・ポリティクス」と呼んだ。ここで、ミクロポリティクスを成り立たせる一つの具体的な技術として、制度として、ダンスは存在したのだ。
そして、私は1700年、ルイ14世がアカデミーに対して下した命令をきっかけとして生み出された一つの発明が、制度としてのダンスを決定的なものにしたと考えている。その発明とは「コレオグラフィ」のことである。「コレオグラフィ」とは、ダンスの「パ」を記号化し、体系的に記述するための技術であり、正しいパを収集・分類するという側面を持っていた。
アカデミーの権威の下に、ダンスのステップは正典化されていった。『コレオグラフィ』の著者ラウール・オジェ・フイエは数え切れないほどの「パ」を分類、記述している。「パ・ドロワ」「パ・ウヴェール」「パ・ロン」、「パ・フォルティレ」「パ・プリエ」「パ・エルヴェ」「パ・バテュ」などなど、ダンスが複雑高度に体系化されていった歴史的プロセスをフイエの本は反映している。『コレオグラフィ』という制度・システムとしてのダンスは、以後、いくつもの書籍を通じて、ヨーロッパ中に広まっていく。これは西洋のダンスの美的基準の確立に役立っただろう。
しかし、それは、元々の目的としては、人間の身体をコード化し、扱いやすいものへと変化させることにあったことを忘れるべきではないだろう。17世紀のダンサーと兵士の身体を作る技術およびミクロ・ポリティクスは、その後、工場労働者の身体に応用され、学校の学生の身体に応用されていった。コレオグラフィを意識したラバンによる20世紀の舞踊記譜法はナチスに応用された。
ちなみに、このことは日本とも無縁ではない。日本は近代化する上で、日本はこのフランス宮廷に起源を持つ舞踏会のダンスを輸入した。日本ではこのダンスのことを初め「butoh」と呼んだのである。もちろん、室伏鴻や土方巽が使う「舞踏」とは全く意味が異なる。明治時代の舞踏はヨーロッパの正しい「パ」を踏むことを目指した。そして、近代的軍隊の兵士の身体、工場労働者の身体もヨーロッパに倣って作られた。それらに共通するのは、合理的で、俊敏で、無駄なく、統制された身体である。言い換えれば正しいパを踏み続けることができる身体であり、「制度としての身体」である。フーコーが観察した17世紀のフランスの「規律訓練型権力」とそれらが作り出す「制度としての身体」は、数世紀をかけてフランスのはるか東にまで到達したのである。
そもそも、制度化される以前のダンスを踊っていた人間の多様な身体はそもそも、このように記号化された「パ」に縮減されるものなのだろうか。そして、正しいとされるパを踏み外した時、その人間はどうなるのだろうか? 無作法な野蛮人となるのだろうか? それとも別の新たな身体を獲得するのだろうか?
正しいとされるパとパの間を踏み抜く時、すなわち「踏み外す」時こそ、「制度としてのダンス」が挫折する時にこそ、人間は、制度の外へと出て、もう一つの人間らしさを露わになるのではないか。土方巽はその試みを「暗黒舞踏」と呼んだのではないか。そして、私は「制度としてのダンス」の外にある身体を、フーコーに倣って「ユートピア的身体」と呼んでみたい。たとえば、それは室伏鴻が私たちに見せてくれる身体の可能性である。
2│ダンスにおける「踏み外し」の系譜:「ユートピア的身体」の発見
室伏鴻は、明確に「踏み外し」の重要性を意識していた。ではそれ以前に、「制度としてのダンス」が確立した後のダンスの歴史において、「踏み外し」を行なった人物はいるのだろうか? それはヴァツラフ・ニジンスキーである。舞踏の創始者である土方巽はニジンスキーに対して絶えざる共感を示していた。舞踏とニジンスキーの共通点は「踏み外し」にある。
よく知られるように、ニジンスキーは1913年に発表した『春の祭典』で、ダンサー文字通りの意味で「faux pas」を踏ませた。クラシック、アカデミックのダンスの規範からすると常道から外れたパを踏まされることに『春の祭典』に参加したダンサーたちは強烈な違和感と不快感を感じていた。『春の祭典』は舞台に上がるまでに100回を超えるリハーサルを必要としたと言われる。春の祭典の中には、特に印象に残る「faux pas」の局面が2回ある。一つめは生贄の乙女が選ばれる瞬間である。若い女性たちが円陣を形成し、その中で興じられるゲームの最中、1人の女性が躓き、転ぶ場面だ。二つ目は、歴史上よく知られる選ばれた生贄の乙女がクラシックの規則の中には存在しない「内股のポジション」でずっと佇んでいる場面である。
王立舞踊アカデミーが定めた規則にはないこのポジションをみたとき、多くの観客が不快感や不安を感じた観客が多く存在したことは想像に難くない。
そして、この2度の「faux pas」は、それを実行する人物の死のきっかけになっていることに注目したい。『春の祭典』がその後100年以上にわたって、初演時のエキゾティシズムの表層を剥ぎ取りながら、多くの振付家やダンサーによって再解釈され続けているのは、「制度としてのダンス」に表立っては現れてこなかった人間の隠れた本質的次元、「死にゆく」存在であるということを露出しているからではないか。死にゆく人間の恐れや不安、集団の中のその異質性を表象する上で、コード化された常道の、安定的なパは役立つはずもない。faux pasが必要だったのだ。2度のfaux pasの後、生贄の乙女は、極めて不自然な姿勢で踊り続け、生贄の死体となる。『春の祭典』の凄みは、このfaux pas を経験した「死体」の物質性に依っているのではないだろうか。この作品のなかの犠牲の乙女の痙攣的動作に、そのfaux pasに「優美さ」を認めたのは、ジャック・リヴィエールただ一人である。
そして、この上演の後、半世紀以上を経て、日本に現れたのが死体をモデルとした土方巽の舞踏である。土方巽は舞踏を次のように定義する「踊りとは、命懸けで突っ立った死体である」。土方巽の付き人を1年だけ務めた室伏のダンスもまた、土方のそのテーゼに対する応答であり続けているように見える。室伏の最後のソロダンスのタイトルは「faux pas」であった。細かく、痙攣するそのダンスは、そのすべての瞬間に「踏み外し」を行ない、制度としてのダンスを挫折させ、制度としての身体を挫折させる。結果として、その身体はこの世のどこにも存在しない身体のように見える。この身体は、動く死体である。それは、並行世界の生き物のようでさえある。私はこの室伏による外のダンスが、本当に美しいと思う。そして、彼がこの「外」のダンスに到達するまでにかけた膨大な身体的鍛錬と思考的鍛錬の時間を想像する。彼は規律訓練型権力から離れるために、制度としてのダンスを殺す技術をずっと研ぎ澄ませてきたのだ。
3│ユートピア思想とユートピア的身体の差異
『春の祭典』において、そして死体をモデルとする「舞踏」にとって、「死体」というイメージは重要である。それは観念的な、抽象的な、あるいはユートピア的な「死」とは異なる。ミシェル・フーコーは西洋社会におけるユートピアの類型化を試み、それらのユートピア思想は人間の身体性を消去してする傾向を持っていると指摘する。しかし、ここで強調したいのは、死はあくまでも「死体」という、腐乱し、悪臭を放つ身体という物質と結びついている、ということである。
フーコーの研究によれば、そして日本の哲学者・小泉義之の研究によれば、私たちの文明、文化、神話や国家の制度は、私たちの身体/死体を消去する傾向にある。なぜか? 死体を排除して、死を抽象概念化することで、私たちの死は具体性や物質性を失い、死者と生者の関係が捏造されてしまうからである。そのことの意味を問いたい。死は死体と分離されるべきではない、というのがこのパートの結論になるだろう。
フーコーは、人間が、身体に抗して、身体を消去するために、ユートピアは生み出されたという。そして彼はユートピアを次のように分類する。一つ目は、身体なき身体を持つような場所である。そこは、妖精や精霊などの非身体的身体が住むユートピアである。フーコーは第一のユートピアを「美しく、澄み渡り、透明で、光に満ち、敏捷で、巨大な力能、無限の持続を持ち、鋭敏で、不可視で、保護され、常に変貌するような身体」を持つ場所という。しかし、そこにある身体は、本来身体が持っている重さや鈍さ、不器用さをないものとしている。
第二のユートピアは、身体を消去するために作られたユートピアである。それは「死の国」である。フーコーがここで想定している身体の消去は古代エジプトのミイラとピラミッドである。フーコーによればミイラとは否定され、変貌した身体のユートピアである。黄金のマスクがはめられたそのミイラは、太陽のような力を付与され、ピラミッドという石の幾何学的身体には神のような永遠性が付与される。そこでは、人間の死体の物質性は消え去っている。
第三のユートピアは魂の神話である。フーコーはこの魂の神話というユートピアは西洋史の基層から存在するという。魂は人間の身体に住まい、身体が死ぬと生き残るためにこっそりと抜け出す。この魂は、石鹸のようにすべすべした生気のない丸みを帯びた身体である。それは美しく、純粋で、清浄なものである。しかし、それは、身体を不浄なものとして不当に下位に奥。そしてそれは死体の腐乱や汚さとは無縁である。
そしてフーコーはこれら3つのユートピアの機能について次のようにまとめる。「そう! 私の身体はこれらすべてのユートピアの効力によって消滅したのだ。魂、墓、精霊、妖精は身体を奪い、瞬く間に身体を消し去り、その重さ、その醜さに息を吹きかけ、光り輝く永遠の身体を私に返してくれたのである。」
しかし、フーコーは続ける。実際に、私たちの身体がこのように縮減されることはない、と。それは、フイエのコレオグラフィのパの記号に私たちの身体が還元されないことと同様であろう。フーコーの立場は、身体の具体性を消去するユートピアに対して否定的、批判的である。そして、フーコーは身体のそれ自体固有の幻想の能力に注目する。それが身体自体のユートピアであり、ユートピア的身体である。フーコーが言うにこのユートピア的身体は「理解不可能な身体、透過的であると同時に不透明な身体、開かれていると同時に閉じられた身体」、しかし同時に「絶対的に可視的な身体」である。
フーコーはいう「私がユートピア(的身体)であるためには、上に見た三種のユートピアは必要ではない。そして私が一つの身体でありさえすれば十分である。ユートピアの起源の場所は、私たちの身体そのものにある。諸々のユートピア思想はおそらく身体から生まれ、おそらくその後で身体に背を向け、身体を消去したのだ、と。フーコーは直接的にはその理由を言わないが、身体を消去するユートピア思想を批判、否定しているのだ。日本の哲学者、小泉義之は死体を消去するユートピアをフーコーよりも苛烈に批判する。彼は、古今東西の神話や戦争を例に出し、「神話や宗教は必ず生者と死者のあいだに関係を捏造する」と断じる。なぜそれが問題か? 死体を隠し、観念となった死者は生者に対して超越的で権力的になるからだ。生者に対して犠牲の死者が必要だと言う論理も作られる。それはひいては、神話や戦争に対する「従順な身体」を作りだすだろう。フーコーが類型化した「身体を消去するユートピア」はその神話的権力のヴァリエーションである。小泉は、また政治家も学者も死者を観念化することで、欺瞞的な政治や欺瞞的な啓蒙を行なってしまう例を挙げて批判する。
しかし、本当は、フーコーが言うように、人間の身体はすべて、ユートピアの主要な当事者なのだろう。そして人間がユートピア的身体を獲得するために発明したものとして彼があげるのが、仮面、化粧、刺青、そしてダンスである。
これらは身体を不可視の力との交信状態に入らせる。そしてまた、これらは、謎めいた言語を身体の上に登録し、身体を固有の空間から引き離し、もう一つの空間に投企する。フーコー云くその時、「ダンサーの身体とはちょうど自分にとってない的であると同時に外的でもあるような空間そのものにしたがって拡張された身体」であり、「物質性としての、肉としての身体は自分自身の幻想の産物のようなものであろう」。
フーコーが言っていることは、身体は文化的な構築物であるということである。身体には絶えず意味や観念が書き込まれる。社会や制度、歴史は私たちの身体に刻まれる。しかし、私たちはそのような言説的権力とは別の何かを身体に書き込むこともできる。ダンスにおいては「faux pas」を踏むことがそのような行為として理解される。室伏のダンスもそのようなものとして見ることができるだろう。室伏の肉体は、諸々の権力が書き込まれた制度としての肉体を破壊し、肉体の暗黒を、真夜中の時間を、自らのうちに引き込み、それを裏返しにして、私たちの眼に見えるようにするのだ。潜在的に何にでもなれる身体/死体、すなわちユートピア的身体を室伏は私たちに差し出す。
4│鏡と死体の機能
フーコーは、私たちの身体が単純なユートピアではないのは、鏡と死体のおかげだという。それは、自分たちの身体に対して、また習慣的な世界観や神話に対して盲目的な私たちが普段忘れていることである。ともすれば、死体はなかったことにしてしまうのが私たちの世界だ。そこには人類がたびたび侵してきた欺瞞と捏造と不正義がある。
言い方を変えれば、鏡と死体がユートピア的身体を獲得する、あるいは発見する上で重要な媒介物であるということだ。鏡と死体は、自らの身体を全てみることができない私たちにとって、身体の全貌を観察可能し、ユートピアに逃避することを不可能にするという点で、同じ機能を持っている。
そのことをフーコーは二つの例から説明する。一つは幼児の身体把握の方法であり、もう一つは古代ギリシアのホメロスの詩において、「身体」を指す語が「死体」を指し示す場合にしか現れないということである。
生後数ヶ月から1年以上にわたって、幼児は自分の身体の統合的なイメージを持つことができないという。子供は四散した身体、手足しか持たず、それらは組織化されていない。それゆえに、彼らの身体の統一性は鏡のイメージにおいてしか具現化しない。そして、古代ギリシアのホメロスが書くギリシャ人たちもまた、身体の統一性を指し示す語を持っていない。身体を意味するギリシャ語は、死体を指し示すためにしか現れないのだという。死体を消去しないホメロスは死体に対して誠実である。つまり、フーコーが言うように、古代ギリシアにおいては、現代の概念で捉えられる「身体」は存在しないということであろう。あるいは、私たち自身が、私たちの身体を把握しきれないということに対して、極めて誠実な言葉の使い方なのかもしれない。
翻って、私たちが私たちの身体を、ユートピア的身体の存在する空間を具体的にしめしてくれるのは、ユートピア思想ではなく、鏡としての死体、ということができる。死体は、身体を消去するユートピアの欺瞞から離れて、即物的である。「鏡としての死体は、この身体は一つの形を持っており、この形は一つの輪郭を持っており、この輪郭においてのみ厚み、重さが存在することを、つまり、身体が一つの場所を占めることを教えてくれる。」それは、私たちが都合よく頼ってしまうユートピアを沈黙させる。
私たちは死体を消去することで死を観念化するのではなく「死体」の醜さ、しわがれた皮膚、浮き上がった骨、物質としての身体・死体を手放さない舞踏というダンスを知っている。このオデオンシアターで、室伏は2013年に死体を踊る二つの作品を発表している。『Dead1』と『墓場で踊る熱狂的なダンス』である。痙攣と転倒と消尽する身体が美しい。
政治的な制度としての身体を挫折させる「踏み外し」によって現れる死体のダンスは、私たちが独力では到達できない、自らの死体がある場所を教えてくれる。
最後に
私はいつも室伏について語る時、学者としての限界を思い知る。
ブランショは制度としての文学の外にのみ文学を見出している。室伏もまた制度としてのダンスの外にのみダンスを見出している。そこには彼らの踏み外しがあるのだ。制度の外にあるこの真の芸術を捉えるために、「制度としての学問」は役立たないのではないだろうか。とすれば、私もまた「制度としての学問」の外に踏み外さなければ、彼らの実践、ユートピア的身体に接近することはできないのではないかと思う。
そこで、私もフーコーが「ユートピア的身体」を獲得するために教えてくれた方法を採用してみたい。私は仮面、化粧、刺青、ダンスのいずれかの方法をとって、このプレゼンテーションを終えたいと考えた。
化粧は手間がかかるし道具を持っていない、刺青を入れるには勇気が足りない、ダンスは苦手である。とすれば、私が取りうる方法は仮面である。能面でも持参しようかと思ったが、それももっていない。そこで、私は自らの手を仮面に代わって使いたいと思う。そして、私は、学術という制度を、学術的プレゼンテーションという枠組みをほんのささやかに、踏み外し、結論をパフォーマティヴに語ってみたいと思う。
私が手を隠すと、私の顔は隠れ、私は別の身体になる。この身体を聴衆の皆様が身体を把握するために捧げる。私は、みなさんにとっての鏡としての死体である。
結論および主張。
室伏鴻は私たちの鏡である。
室伏鴻は私たちの死体である。
室伏鴻は私たちの鏡としての死体である。
それゆえに、私たちは私たち自身の死体のありかを、室伏鴻によって知ることができる。
私たちはユートピアとユートピア的身体を明確に区別しなければならない。
身体を消去するユートピアを回避しよう。
それは観念への、制度への従属を生じさせる。
私たちの生と死を操作するビオポリティクスとネクロポリティクスから離れよう。
私たちの身体そのものが、ユートピアの核である。
室伏鴻は、多様な可能性に満ちている私たちの身体を映し出す鏡としての死体である。
それは私たちにとってのユートピア的身体である。
そしていまここに立っている私の身体もまた、あなたたちの鏡としての死体である。
ご清聴ありがとうございました。
Profile

越智雄磨
Yuma Ochi東京都立大学人文社会学部准教授(舞台芸術研究、身体論)。著書に『コンテンポラリー・ダンスの現在 ノン・ダンス以後の地平』(国書刊行会、2020 年)、論文に「Antibody としてのダンスーコンタクトゴンゾ『訓練されていない素人のための振付コンセプト』をめぐって」(『舞踊学、2020 年』)などがある。