Ko Murobushi Exhibition

2025.7.28
シンポジウム

クロノスの肉体を切り裂く:室伏鴻、時間、そして消失の詩学

ロミーナ・アハツ

I序論:時間と外部の詩学

舞踏の創始者、土方巽の家の階段の辺りには、海を描いた油絵が飾られていた。

かつて大野慶人から聞いた話では、三島由紀夫――1959年の最初の舞踏公演のきっかけとなった小説『禁色』を著した作家――が土方を訪ねて踊る際は、必ず時計を外していたということである。

直線的な時間の神であるクロノス、その象徴である時系列の時間を測定する装置を外すという行為、このシンプルな作業には深い意味がある。

数え、分け、規律する神クロノスは、西洋社会、産業、言語、そして室伏鴻が「アイデンティティという神話」と呼んだものを構築するために生まれた。(室伏鴻、ドシエニジンスキー、パリ、2014年)

おそらく、直線性の神クロノスは、そこで、土方の家の、あの描かれた波の中で溺れたのだろう。波の中の循環と永遠を司る神アイオーンに呑み込まれて。そしてその瞬間、三島と土方は踊り始めた。

室伏鴻は踊りの中で、まるで鎌鼬のようにクロノスの肉体を切り裂いた。鎌鼬とは、東北の田んぼの労働者たちに、鋭く湾曲した前爪で血を流さずに刺すような傷を与える、目に見えないイタチのことである。その名前は細江英公と土方巽の写真シリーズによって伝説となった。

室伏鴻は、消え去り、変容し、他者になることへの深い願望を抱えて――それに切り裂かれるかのようにして――自らの肺の奥にある〈外〉の非人格的な呼吸、一つの延長された〈真夜中〉を覚醒させ、ひろげようとした。

本エッセイは、日本のダンサー室伏鴻の、作品における時間への不服従と身体詩学の探求について考察する。クロノスやアイオンからニーチェにおける「真夜中」、フーコーにおける「外」、ドゥルーズにおける「瞬間」、モーリス・ブランショにおける「時間の破壊」、そして、ジョルジュ・バタイユの「無頭の存在論」に至るまで、時間の哲学を手がかりに、表象、アイデンティティ、そして実用性を横断する振付の軌跡を辿ることを目指す。

室伏にとって踊ることは表現することではなく 消去することであった。
身体を〈再現する〉のではなく、やがて〈非人称の呼吸〉と〈生成の場〉が立ち現れるまで、むしろ〈形を崩す〉ことで、身体という有機体を突き抜けて流れ込むような力にさらす――身体を震わせ、崩し、再構成しながら――

室伏の作品には、何度も戻ってくるリズムがある。

海。

それは永遠の運動と反復を象徴するメタファーであり、室伏にとっての盟友でもある。
彼にとって、波の流れはまさしく絶対的なダンスのように映る。室伏鴻にとって、ダンスの時間は歴史の外にある。
かつてミシェル・セールは、「海そのものには記憶がない」と書いた。
海は永遠の中断に満ちている—だからこそ、そこには常に新たな始まりがある。

モーリス・ブランショは、「万物が繰り返されるという考え方は、時間を破壊するかたちで時間について考える方法だ」と書いている。

土方は、『あらゆる場所で常に、何度でも再び誕生する必要がある』と宣言した。

波は崩れ、折り重なり、再び立ち上がる。
そして室伏の身体もまた。

海は連続のメタファーではない――切断の、遮断のメタファーだ。

そこは行き着く先のない運動。
中断の反復。

室伏鴻は書く。
「私は時間を殺したい」。

彼は海を泳ぐのではない。
その海に溺れる。
移ろい続け、決して到達しない虚無の波のなかに、彼は消えてゆく。

真に踊るとき、私たちは海の時間を想起させようとする──アイオーンの眼を覚醒させ、その眼差しが私たちを見つめ、永遠の感覚で汗ばんだ手を握るように。

アイオーンの指先が肌に触れることは、西洋的・線形的でない時間の概念と私たちの身体をつなぎ、現在という生きられた瞬間は、抹消と再生とが絡み合っていることを示唆する――まるで土方巽の油彩画に描かれた波の如く。

室伏鴻にとって、ダンスはただダンスの中にあるものではない。

彼にとって、人生の内部に向かって「外部」へ穴を穿ち始めた瞬間、それがダンスの始まりである。

彼の筆致にはひときわ印象的な反復がある――名もなき「外部」への呼びかけ。そこは変形と脱主体化の母型である。

Cry…. C-R-Y. C-RA-CK! C-RA-CK.

Can you hear it? You—are you listening?

(Kō Murobushi Archive, 2001)


聞こえるか? あなた、聞いているか?
名も知らぬ誰か(マラルメ?)
名を持たぬ声、
居場所さえ持たぬ、
非・場所に響く声――
叫ぶ……C‑R‑Y
C‑RA‑CK! C‑RA‑CK
聞こえるか?君――聴いているのか?

 穴を掘る、外へ向かって掘ること──それは主体的な行為であり、継続的な動きであり、そこに到達する保証も、確かな目的もない。しかし、身体は独自の掘り方を身につけ、その記憶を獲得することができる。

彼は自らのダンスについてこう書いている:
「到達し得ないものへと手を伸ばすこと。私の願いは、到達し得ない“それ”になることだ。」(2013)

“外を掘る”とは、“内を掘る”の反対である。時には暴力的になり得る、“内側”へ向かって掘り進む行為は、しばしば内在性というネバついた絡みへ、そして幸か不幸か取り返しのつかない記憶の国へと導く。

だが、彼――室伏は、そうして“宙吊り”になるのではなく、《すべての言説が消え、無人格な沈黙へと溶け込む場所》と彼が呼んだ“外”、〈生まれ故郷〉へと惹かれていった。

室伏にとって、「外(Outside)」とは、すべての形が崩れ去る暗闇の瞬間と深く結びついていた。

1950年代後半に誕生した土方巽の“暗黒舞踏(Ankoku Butoh)”は、三島由紀夫、バタイユ、ジュネ、ブランショ、サド、ロートレアモン、アルトーといった作家たちによる“闇の文学”に深く影響を受けていた 。

土方の暗黒舞踏の身体は、そうした作家やシュルレアリスムの言葉に養われて行った。

1960年代後半、室伏鴻は土方巽に師事し、およそ18ヶ月にわたってアシスタントを務めた 。

バタイユやアルトーに没入するなかで、室伏は、文章のなかに潜むエッジ──極限的体験の身体的感覚──に魅惑され、それを踊る身体へと転置していった。

インスピレーションとして、彼は私たちの日常生活の暗闇の瞬間を思い出させてくれる。

「子供たちのはしゃぎぶりを思い出して下さい。バースディパーティーや新年パーティーで、ろうそくを消したときの子供や大人の荘重な気持ちを思い出してください。
そのとき、我々は何か奇妙で、形が悪く、魅惑的なものに出会っているのです。それが日常生活の中で見出される暗闇の力です。しかしながらふだんは、その力について考えません。トンネルが短すぎるからでしょうし、パーティーはうるさすぎるから……暗闇の中で一旦、死を経験します。列車がトンネルを出るとき、生きかえるのです。これは、たとえわずかであれ、バースディパーティー、新年パーティーの演出で、無音の暗闇が必要な理由でもあります。(…) 私のダンスは我々の意識の「原初的な」層を掘りつづけます。それは「生きられた死」にほかなりません。」(室伏鴻1983)

1981年に室伏が初めて上演したダンスパフォーマンスは、深海に沈む夜のない闇、ヒナガタにちなんで名付けられた。

闇の瞬間は、すべての表象のパラダイム、差異や同一性の体系そのものの抹消を伴う。
海の深みは見通すことができない。その暗闇は、既存のすべての図像や形態を消し去ってしまう。

室伏(1992)は、海に溶け込み、盲目と失踪に身を委ねたいという願望に突き動かされてダンスを始めた。

この渇望は、室伏鴻や土方巽だけでなく、アントナン・アルトー(Antonin Artaud)の思想にも深く共振する。1947年、アルトーは「身体を内部の闇の深奥へと延伸したい」という渇望を語っている──それは内的虚無へのジェスチャーであり、〈無=存在なきもの〉の身体化への欲望であった(Artaud 1947: 563)。同じように、ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille)は『内なる経験(Inner Experience)』の中で、「最も深い夜の闇の中に盲目のまま残ること」を望む渇望を表している──視覚が知られざるものへと溶解する虚無への降下である(Bataille, 1988: 35)。

IIクロノスの切断: 生産と無益の間

クロノス、つまり社会秩序の直線的で生産的な時間は、室伏鴻にとって最初の敵である。社会的に組織化された時間は暴力的で、有用性が求められ、それはアイデンティティを要求し、それは、パフォーマンスを発揮し、生産する体を要求しする。

室伏のダンスは切断であり、直線性の裂傷である。
それはクロノス、つまり社会、資本、言語、構造の測定された時間への切り込み。
この構図において、ダンサーの身体は致死的なまでの無用さとなる。その無用さは「不在」ではなく、資本主義的論理への逆襲、つまり転覆なのだ。

抵抗する身体
外を志向する身体

2011年のインタビューで室伏は以下のように語っている。

「時間とは常に──社会を機能させるための時間計数である。
時間とは、社会のための生産物である。
しかし、それが〈無用の時間〉であるなら、それは時間の外にある。
それは社会の時間とは異なる──歴史の外にあるのだから。」

室伏は、生産力として役に立たない存在になりたかった。
彼は、その全エネルギーを踊りに燃やしたかった。
土方巽は、自身の最初のマニフェストにおいて、ダンスを「目的なき身体の使用」と表現し、そのため生産志向の社会における致命的な敵だとした。
この視点から、彼はダンサーと犯罪者を比較したのだった。

ワークショップでゆっくり動いている最中、彼は、自分の動きが確立されたダンスの語彙や舞踏や瞑想の美学に似ているかもしれないと述べた。しかし、その瞬間において彼の意図は「時間を殺す」ことであり――その瞬間さえも繰り返し殺すことであった。

おそらく、私たちが目的もなく踊り、己を忘れて時間を殺す瞬間の中で、永遠に生きていると感じるのだろう。

彼は、マラルメ『イジチュールにおける真夜中』(1925年)およびニーチェの詩「真夜中」(2006年:264頁)に着想を得て、社会によって構築された線形的・時間軸的・計量可能な時間の流れを、激しく断ち切ろうとした。そしてこう説明している:

「私はニーチェがとても好きだし、マラルメも同様だ。マラルメの詩『真夜中』は非常に重要だ。それは完全に時間の外に存在している。別の次元に属している…ニーチェにとっても、それはまるで永遠の回帰のようなものである。そしてその回帰は、死に極めて近いものなのだ。」(渡辺 2015b による逐語訳)

III瞬間と時間の亀裂

ドゥルーズは「瞬間」を「時間の死」と呼ぶことがある。
ときには、人がまさに死にゆく直前、あるいは死んだ直後のその「瞬間」が、まさにそれだと定義した。この「間」においてこそ、絶対的な内在の感覚が立ち現れるのだ。
おそらく、室伏はその瞬間さえも破壊することで、永遠を「製造する」存在になろうとしたのだろう。

痙える足と囁くような息――時には痛みに沈むそのとき—舞台で海塩に濡れた彼の肌の風景は数えきれない時の膜に触れ、掴むことのできないものに触れている。
主体が砕ける瞬間――個人的なものではない何かが脈打つ。それはまるで、暗い海の中に刻まれた襞(ひだ)のように。
彼のダンスは、まるで相撲の塩撒きのように、鋭い海の塩に清められた変容的な「間」の空間と時間を育む。

IV.顔面、アイデンティティ、エロティック、無頭体

ドゥルーズとガタリにとって、顔は〈レジーム=体制〉である。顔とはキリストであり、白人男性であり、従順になるべき子どもでもある。顔とは権力のお気に入りの仮面でもある。顔(フェイシャリティ)は、個人をコード化し、支配し、認識する。顔とはアイデンティティそのものだ。そしてそれこそが、室伏鴻が攻撃の対象とするものである。

初期のパフォーマンスでは、彼は泥や漆喰や絵の具で顔を塗りつぶした。後には布で顔を覆い、〈アセファル=無頭〉で〈フェイスレス=顔なき〉身体を提示した。そこにはヒエラルキーのない身体がある。

肌が考え、息が語る身体。
美的ではなく――抵抗的である。
踊り手は認識できない存在となり――そして、自由となる。
これがバタイユのアセファル――無頭の存在である。
アイデンティティを持たない――ゆえに、限界を持たない――エロティックで神聖で恐ろしい身体。
室伏鴻は、拒絶され魅力的な怪物、鬼となりたかった。
彼は男になりたかったのではない――規範的なジェンダーの物語を拒絶する異質な存在となりたかった。
ジェンダーもまた、この流動的な空間で解体され、再構築される。
室伏鴻は男でも女でもなく—植物、石、水、薔薇となる。
彼の「大人になること」の拒否は、ジェンダーの二項対立を破壊し、社会的アイデンティティに先行し超越するクィアな身体性を開く。
この文脈で、エロティックは抵抗と力の重要な場として浮かび上がる。
オードリー・ロードが述べるように、エロティックとは自己の始まりと、最も強い感情の混沌との間の、尺度である。
エロティックは単なる性愛ではなく、規範的なヒエラルキーを覆す知識と変容の力である。ジョルジュ・バタイユのエロス—越境と境界の解体の力—と結びつくことで、エロティックな力は根本的な身体化の行為となり、課された社会秩序を超えた自己の回復となる。

室伏鴻の舞踏はこの二重の力を体現する。時間、ジェンダー、表象の制約を切り裂く身体的な断絶を通じて、新たな存在と認識の様式が現れる空間を生み出す。
規範的なアイデンティティを拒否するエイリアンの存在。

V真夜中とミイラ:超えられない閾

ある公演に、奇妙な存在が現れる――それは「ミイラ」である。
包まれ、盲い、静止し、2年に一度だけ呼吸する、非人格的な存在。
それは「真夜中」が肉体を持った姿。

ニーチェが語った「真夜中」――それは時間の裂け目であり、昼でも夜でもない時刻。
宙づりの刹那。

室伏鴻はあるメールの中でこう書いている:
「私は昼と夜のあいだの時間にいる。それは〈今〉の外にある。」

つまり踊るということは、死ぬことに似ている――だが終わりではない。
それは習慣としての死。

真夜中は、永遠の呼吸が繰り返し戻ってくる時。
それは「存在」ではなく、「不在」がリズムとなって現れる瞬間。

時の夜が目覚めたとき、彼は真夜中の裂け目から這い出る――その身体には永遠の感覚が満ちている。

それは広範な政治的次元を展開させる。
完遂されることなく遂行される、延長された“死の瞬間”にも似ている。
永遠の反復と“真夜中”は、室伏鴻にとってきわめて似通っている。

VI外部(Outside)としての生成と、消失の技法

私たちはフーコーが語る「外部」に立ち返る—――
「主体を、生きられないものにできるだけ近づける経験」である。
室伏鴻にとって、この“外部”は超越的なものではない。
それは、身体的・内臓的・苦痛に満ちた、根源的な内在性である。
それは、震える四肢、ひび割れた呼吸、壊れた文法の中に生きている。
これは単なる演技としてのダンスではない――ダンスそのものが閾(しきい)のようなものだ。
主体の身体が力の生成場となる場所――消失の蠢く境界線だ。
生産性、表象、アイデンティティが支配するイメージ過多の世界において――
室伏鴻は「消失」を提案する。

消失の詩学。
不透明になっていくことの詩学。
非時間の中で呼吸するということの詩学。
「踊っている間に、私は消えたい。」

それは不在ではない。
それは抵抗であり、拒絶である。

深く倫理的な身振り――
顔を拒み、名前を拒み、物語を拒み、
有機体を、非人格的な何かへと開いてゆく。
永遠なるもの。
所有できないもの。

そうすることで、室伏鴻は世界から逃れるのではない。
彼はその亀裂をあらわにし、
その上で踊るのだ。

三島由紀夫が、最期にカメラの前で腕時計を外したことは、よく知られている。
そして室伏は、こう書いた。

「ダンスは自殺だろう? でも、それは決して達成されない自殺だ。」

想像の中に可能性があり、現実の中に不可能がある――
その裂け目に、彼のダンスの詩が生まれる。

一度メキシコで撮影されたワークショップ映像の中で――
いま、ここウィーンで、
インプルスタンツ・フェスティバルの会期中に、
放浪する「室伏鴻アーカイブ」の映像が、
オデオン劇場のカフェスペースのすり減った階段をのぼった先で、やわらかく揺らめきながら再生されるなか――彼は、まるでひとりごとのようにこう言う:

「本当の人生が終わるまで――
私は死に続ける。」

Profile

ロミーナ・アハツRomina Achatz

研究者、エッセイスト、映画製作者、ダンサー、ラジオプロデューサー。身体政治、フェミニスト理論、視覚文化により、疎外された身体的実体、パフォーマンス的実践、非主観化、非人格の美学、等を通して、パフォーマンスと批判理論の交差点にあるテーマに焦点を当てる。室伏鴻のダンスに関する論文で、博士号を取得。