Ko Murobushi Exhibition

展覧会アンケート

室伏鴻⽒の世界が開かれる

ウィーンの歴史的な建造物でのエグジビジョン。まずその会場設定からも室伏鴻アーカイヴの⽴脚点を感じた。かつてこの硬質で華やかなオデオンシアターで公演し、世界の舞台に⾝を置きながら、つねに外へと逸脱をもとめた室伏鴻⽒の感性が⽴ち上がっていた。
新旧が⼊り混じる表通りに⽴つネオ・ルネサンスの重厚壮麗な建築物。その⾼い天井をもつホワイエ会場での展⽰。⼀⽅で、脇のアーチをくぐりパッサージへと移動すると、時が⽌まったような静寂な中庭のカフェにエグジビジョンが現れる。外へのこだわりを思考した、室伏鴻⽒の感性や気配の只中へと迷い⼊り、開かれた移動アーカイヴの在り様に全⾝で浸る感覚だった。
鉄の枠がアクセントになった、天井までの⼤きな開放的な窓が広がる静かなカフェ。そのガラスは近くでは読みそびれる程⼤きな縦書きのアルファベットがスタイリッシュにFaux Pasの⽂字が描かれている。⼊ると、時を経た染みと剥がれの⾒られる壁と使い込まれた⽊の床が、かつての⽇々を感じさせる。
右⼿の壁には、⼤きく拡⼤された室伏⽒の姿が、普通紙に断⽚となってプリントアウトされ、剥がれるような不安定さを感じさせながら貼り敷き詰められている。室伏の⽊乃伊の膚感覚、在−⾮在を思い起こさせる。
左⼿には、スナップ写真が⼀直線を描き、並⾏してタブレット端末が⽴ち並び、エネルギー溢れる当時の魅⼒的な舞台映像を映し出し、奥へと誘う。途中の壁に、室伏⽒の活動中盤までの写真が壁に得体のしれないゾーンを描くように張り巡らされている。
その先の薄暗い奥の深いがらんとした空間は、かつてのこの場の⼈の気配が余韻となって漂う。⻑テーブルには重みを堪えた写真集や書籍が並ぶ。そして階段を上がった中⼆階の隠れ家のような⼩部屋では、室伏⽒の後半⽣でのワークショップがたっぷりと映し出され、室伏⽒の声と⾔葉に出会うことが出来る。奥の間で室伏⽒をじっくりと体験できるという⼨法。あっという間に時間を忘れて沈没する。
⾔葉を深く持ち外へと踏み外し、名付けられないものとして彼の在りし⽇の室伏⽒の感覚が、この近代建築の戦争を経た流浪と、表から外れたこの内部のアンバランスさと呼応しているようだった。

語り尽してもしきれないシンポジウム

この期間中に⾏われた3⽇間にわたるシンポジウムでは、室伏鴻と⼟⽅巽の遺産をもとに、⽇本と各国の研究者がそれぞれに熱く論じた。瞬く間の興味深い時間が繰り広げられ、ギャラリー側も熱⼼で常に満席、終わってからの話もカフェの中と外で盛り上がった。
話者は『アンチ・ダンス 無為のコレオグラフィ』の執筆者や、これまでShyでのシンポジウムを積み重ねてきた顔ぶれ。室伏鴻と話をしてきた⼈や没後知ることになった⼈、それぞれの学術的専⾨的な観点から室伏鴻の世界へと切り込み展開されていく。その知的探求はもはや思考がダンスするようにさえ感じられる。とはいえ、その思考のダンスは、室伏⽒の⾔葉や世界につながる、哲学や⽂学科学歴史これまでの経験などあらゆるものから汲まれ裏付けられ考察が繰り広げられる。

主会場は古いが天井の高い広い施設で、活気ある街中の1階にあり誰もが入りやすい立地であった。会場では主催者の方が常駐していて来場者の対応にあたっていた。展示されていたのは室伏鴻のパフォーマンスを撮影した写真、公演のフィルムから抜粋された多くの静止画像、室伏によるワークショップの記録動画、並びに本人のインタビューを交えた映像作品などであった。加えて舞踏の歴史上において貴重かつ美術的評価の高い資料である半世紀前の公演ポスターにも目を魅かれた。いずれも室伏の多彩な活動と日本で発生した舞踏の類を見ない世界に触れることができた。今は亡き舞踏家の作りあげた身体表現を未見の鑑賞者に伝えるという難易度の高い展示の工夫に主催者側の熱意が感じられた。

私が訪れた27日は、東京のアーカイブ「Shy」の活動を会期中の数日間ウィーンで再現するイベントの初日で、午後から来場者を迎えるオープニングパーティが開かれた。幅広い年代層の男女が入れ替わり集まり、作品を囲んで意見や感想が交わされていた。私も数人の方と話したが来場者は必ずしも室伏や舞踏の知識を持っている方ばかりではなく、おそらく今回が彼を知る初めての機会になったのではないかと思われる若い参加者も少なくない印象を受けた。いずれも興味深く展示を見ていた。

28日は東京のShyで不定期に開かれているシンポジウムと同様の形式の集まりが4日に渡って開催された初日であった。日本人2名を含む4人の登壇者による各自の研究の視点からの発表が行われた。会場を埋めた聴講者たちは自身の分野から室伏に関心のある研究者が多かったようにも見えるが、オープニングパーティと同様に一般の老若男女も熱心に聞き入っていた。広く解放された会場の設営に尽力された主催者の努力の賜物だろう。シンポジウム後の懇談会でも活発な意見が交換されていた。

ImPulsTanz Festival 2025「室伏鴻展」で行われたシンポジウムは、カンパニー・アリアドーネの元メンバーである私にとって、刺激的で非常に貴重な経験となりました。

シンポジウムの講演者の多様な視点を通して、室伏鴻の作品の複雑さを学ぶことは非常に興味深く、この類まれなアーティストへの理解を広げ、深めることができました。幸運にも3日間すべてに出席し、ほぼすべての講演者の話を聴くことができました。

私が室伏鴻に初めて出会ったのは40年以上前、私が生まれ育ち今も住んでいるウィーンの、セラピオン劇場においてでした。室伏鴻とカルロッタ池田は、私にとっての最初の、そして最も重要な舞踏の教師でした。

セラピオン劇場は、当初ヴァレンシュタイン広場にあり、私が初めて室伏鴻のソロ公演「IKI」を体験した場所ですが、1988年にオデオンに移転しました。ウィーンにおける室伏鴻の公演のほぼすべてがオデオンで行われていたため、展覧会とシンポジウムがオデオンで開催されることは、私にとっては、ごく自然な流れでした。

会場全体の雰囲気、そして講演者やゲストへのサポートは、渡辺喜美子氏によって見事に構成・設計され、誰もが心地よく過ごせる空間となりました。そして誰にとっても何かしら得るものがありました。哲学に興味を持って来場した人々は、初めてこのダンス形式への深い洞察を得ることができましたし、ダンサーたちは、室伏鴻の作品の哲学的側面を探求することができました。日本の美術界に関心を持つ人々は、ただただ感嘆していました。そして、室伏鴻を個人的に知っていて、共に仕事をした私のような者にとっても、展覧会とシンポジウムは単なる回想ではなく、テーマについてより深く理解し、掘り下げる機会となりました。

ここで個々の講演者について書き尽くすのはあまりにも長くなりすぎますので、最後に行われたフレデリック・プイヨー氏による「首なし主権」についての感想を書きます。なぜならこの講演は、あまりにも素晴らしく、触れずにはいられないからです。それは、純粋な形での「レクチャー・パフォーマンス」であり、非常に知的で鋭く深遠な内容でありながら、エンターテイメント性があり、とても分かりやすいものでもありました。

プログラムは一杯一杯に詰め込まれていましたが、それでも空いた時間があり、旧知の友人と再会したり、新しい友人を作ったりしながらおしゃべりをすることができました。そしてその事がシンポジウムの価値をさらに高めたと思います。

エキシビション、シンポジウムの全体を通して、私にとって非常に貴重な、忘れ得ない経験となりました。