Ko Murobushi Exhibition

Symposium

日時
2025年7月28日‒30日
15:00‒

場所
オデオン・シアター

入場料
無料

失われたもののモンタージュ

江澤健一郎

上演されるとダンスは失われる。ダンスの根底には無為があり、それは効力なき活動をつくっている。室伏鴻は、なにか意味のあるものへとダンスを制度化することに抵抗し、その場で完全にダンスを消尽し、無為へと差し戻そうとしている。アーカイブ資料を用いて室伏のダンスの展示を企画することは、彼の無為を裏切ることだろうか?必ずしもそうではない。写真、テクスト、ビデオ、ちらしといったさまざまな資料をモンタージュすることによって、失われたものを保存し意味のあるものにするよりも、むしろ失われたものの喪失そのものを潜在的に現前させることが可能なのだ。それは潜在性の兆候をかたちづくる異なる種類の創造となるのだ。

Profile

1967年生まれ。フランス文学専攻。博士(文学)。立教大学兼任講師。著書、『バタイユ――呪われた思想家』(河出書房新社)、『ジョルジュ・バタイユの《不定形》の美学』(水声社)『中平卓馬論』(水声社)『思想家 岡本太郎』(月曜社)。共著書、『中平卓馬——来たるべき写真家』(河出書房新社)ほか。訳書、ジョルジュ・バタイユ『有罪者——無神学大全』『ドキュマン』(以上、河出文庫)、『マネ』(月曜社)、『聖なる陰謀——アセファル資料集』(共訳、ちくま学芸文庫)。ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージの前で——美術史の目的への問い』(法政大学出版局)。ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』(共訳、法政大学出版局)。

感覚の測震者

堀千晶

ダンスとは空間のドローイングである。空間じたいを生成する運動、すなわちトラクトゥス。手や指のごくわずかな軋みが舞台上の空気を一変させる。そのたびごとにたったひとつの特異な空間が描かれる。では、室伏鴻の震える身体はいかなる空間を現出させるのか。そしていかにしてみずからつくりだした空間から身を引くのか。まるで恥じらいをまとうかのように。ダンサー室伏鴻は描きつつ身を隠す(drawing, withdrawing)――震える時のエッジにあやうく身を持しながら。

Profile

仏文学者。著書に『ドゥルーズ 思考の生態学』(月曜社)、『ドゥルーズ キーワード89』(共著、せりか書房)、訳書にジル・ドゥルーズ『ザッヘル゠マゾッホ紹介』(河出文庫)、ロベール・パンジェ『パッサカリア』(水声社)、ダヴィッド・ラプジャード『ちいさな生存の美学』(月曜社)など。

錯乱したダンスホールとしての身体、解剖台としての身体

スティーブン・バーバー

本発表は、アントナン・アルトーの最後の著作とダンスの概念、それから室伏鴻のダンスと密接に交差する彼自身の断片的な著作について、2004年にロンドンで室伏とおこなった議論の名残をかたちづくるものである。本発表はまた、室伏鴻の著作、断片、日記の記述の翻訳の必要性と責務を探求するものでもある——これらは最初の探究的集成で例示されており、2025年に『苛烈な無為』としてdiaphens社から英語で出版されることになっている(翻訳が予定されている)。

Profile

ロンドン・キングストン大学美術学校教授、作家。アートと映画を教えている。近著にWhite Noise BallroomsInto the Wastelandsがある。ほかの著作に、1960年代東京におけると土方巽と映像作家の協働にかんするFilm’s Ghostsがある。

無頭の主権=統治

フレデリック・プイヨード

未定

Profile

エクス・マルセイユ大学芸術学部教授(近現代芸術の美学と理論。IUF名誉会員。Aix-Marseille Université – UFR ALLSH – Bâtiment 14 Turbulence – bureau 205 – Campus Saint-Charles – Marseille
http://www.univ-amu.fr

ダンスと非有機的生:身体と脳を貫く政治について

宇野邦一

「旅は本を消去する。旅は消去された本だ。」室伏は踊りと旅の間で書き続け、本を構想していた。すでに本を書き、本は書かれては、消されていた。ダンスそのものがそういう過程であり、旅であった。手探りの闇に吸い寄せられる。その闇に溶けてしまう。そのような手探りが「ダンス」であり、闇に溶けたものを、闇から引きずり出す言葉がある。そのような消去と出現の過程を振り返ってみようとする。

Profile

フランス文学者・批評家・立教大学名誉教授(映像身体学科)。著書に『アルトー 思考と身体』(白水社)、『土方巽』(みすず書房)、『ベケットのほうへ』(五柳書院)、『非有機的生』(講談社)、『パガニスム』(青土社)、訳書にドゥルーズ/ガタリ『アンチ・オイディプス』、アルトー『神の裁きと訣別するため』、ドゥルーズ『フーコー』(以上河出文庫)、ドゥルーズ『襞』『フランシス・ベーコン』、ベケット『モロイ』『どんなふう』(河出書房新社), Hijikata Tatsumi – penser un corps épuisé , Artaud pensée et corps (Les Presses du Réel) などがある。

我々は息をして突っ立っている死体である

竹重伸一

しばしば、ダンスの技術と思想は別物と考えられがちだが本来区別して考えられるものではない。スポーツと違って全てのダンスの技術は何らかの思想に基づいている。ニジンスキーはバレエのシンメトリックな2次元のアクシスを3次元のアシンメトリックなアクシスに作り変えた。これはカントの物自体と空間論に関係している。室伏鴻はそこから更に進めてあらゆるダンスの技術を停止しダンスを身体の痙攣と息(呼吸)に還元してしまった。そこからどういう思想を読み解くことができるだろうか?

Profile

1965年生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。大学在学中は映画、文学、哲学に熱中するが、映画で知ったモーリス・ベジャール(バレエ)とアントニオ・ガデス(フラメンコ)でダンスの魅力に開眼。1989年舞踏に出会う。ほとんど動かないこのダンスの激しさは、ダンスに対する視点を視覚的なスペクタクルから空間と身体の変容へと変えた。 2006年よりダンス評論家として、雑誌、新聞、ウェブサイトにダンス、演劇、美術の記事を寄稿。同時に、ジョルジョ・アガンベン、ミシェル・フーコーなどの現代哲学や日本の中世仏教思想に関心を持ち、舞踏の身体性と空間性から新たな哲学の創造を試みている。

室伏鴻の踏み外し:従属的身体からユートピア的身体へ

越智雄磨

ルイ14世治下に生まれたコレオグラフィは、ダンスの「正統なpas」を記号化し、身体を権力のもとに統制する政治的技術である。1913年、ニジンスキーは『春の祭典』でその規範を破り、意図的な「faux pas」を振り付けた。その振付は、共同体から逸脱し、死に向かう生贄の役に割り当てられたが、現実においても、ニジンスキーは狂気と死に接近したアウトサイダーとなった。また、「faux pas」という逸脱の概念を愛用していたのはブランショである。この両者の思想を受け、室伏鴻は即身仏をモチーフに死へ向かうダンスを踊った。ニジンスキーにせよ、室伏にせよ「踏み外し」の先に出現していたのはユートピア的身体だったのではないか。その歴史的・現代的意義を、身体と力の関係の系譜から考察する試みである。

Profile

東京都立大学人文社会学部准教授(舞台芸術研究、身体論)。著書に『コンテンポラリー・ダンスの現在 ノン・ダンス以後の地平』(国書刊行会、2020 年)、共著に『アンチ・ダンス 無為のコレオグラフィ』(水声社、2024 年)、論文に「Antibodyとしてのダンス. コンタクト・ゴンゾ『訓練されていない素人のための振付コンセプト』3部作を巡って」などがある。

断片化の跡

髙山花子

室伏鴻はテクストを遺した。1970年代終わりから、2015年6月の逝去の直前まで、ノートからノートへと、断続的かつ私的に書き継がれた、日記やワークショップメモである。それらは、そのつど書かれた断片であるだけでなく、つかのま消え去る踊りのステップのごとく、室伏そのひとの断片化のありようを体現している——。身体の次元、すなわちダンスと並行して、密やかにあった彼の言葉の次元について、とりわけ1990年代以降の資料にもとづき、考えたい。

Profile

明治大学理工学部総合文化教室助教。専門はフランス思想。著書に『鳥の歌、テクストの森』(春秋社、2022年)、『モーリス・ブランショ——レシの思想』(水声社、2021年)、訳書にジャック・ランシエール『詩の畝』(法政大学出版局、2024年)がある。

未定

ロミーナ・アハツ

未定

Profile

準備中

未定

カティア・ チェントンツェ

未定

Profile

未定