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室伏鴻「外の人、他のもの」

個体と流体。

桜井圭介

舞踏とは、「土俗」でも「神秘」でも「癒し」でもない。「アジア主義」も「J回帰」も「エコロジー」も関係ない。白いカッターシャツに黒のパンツの舞踏家が何もない舞台に立ったとき、そのことがわかるだろう。

もちろん今どきブトーと「自称」するようなものは、無国籍・偽アジアちっくな僧侶のなりした坊主頭の、宇宙人との交信儀式にしか見えないような挙動不審な振るまいだったり、自己啓発セミナーみたいにやたらとリラックスして、ただゆらゆら揺れているだけだったりするわけで、舞踏出身といえどもそれなりにまともなダンサーは皆とっくに、呼称もスタイルも「コンテンポラリー・ダンス」にシフトを完了しているはずだ。

ところが、このヨーロッパ帰りの舞踏家・室伏鴻は、舞踏の黄金時代(というものが、かつてあったらしい)に名を馳せた後、早々と国外に去り、以来ヨーロッパそしてメキシコにいたる都市を転々と彷徨しつつ踊ってきた結果、場所=共同体に根を張らない、常に「此所でないこと」「外」(そと・ほか)であるような表現/身体に到った。ならばそれは反=舞踏と言うべきだろうか?

しかしまた、彼の舞踏は我々の電脳的世界をシュミレートするものでもない。むしろその逆、舞踏の身体の高速度と高密度をシュミレートしているのが、電脳空間なのではないのか。この舞踏家が高速度/超低速度撮影のように驚くべき微細なタイム・コントロールを行使するとき、身体と空間、身体のあらゆる部位と部分の間に瞬時にネットワークを組織するとき(それは最新のコンテンポラリー・ダンス、たとえばW・フォーサイスですら比ではない)、そのような「錯誤」に見舞われるだろう。

それにしても、私は室伏鴻のダンスを何故ことさらに舞踏と名指しするのだろうか?むしろ、「これは(もはや)舞踏ではない」と言うべきではないのか?しかし、例えば土方巽の身体をフィーチャーした細江英公の実験映画『へそと原爆』。モノクロームのフィルムに定着された身体には、我々が見落としてきたかもしれない舞踏の本質が明白にしるされている。暗い銀色に輝く身体の硬い金属的な存在感と、その表面に浮かぶ汗の滴の水銀のような質感とのコントラスト。固体と流体。室伏鴻にもそれがある。この身体は処理速度によって、鋼鉄のような重量による破壊力から一瞬のうちに血管をかけ巡る劇薬の殺傷力まで、あるいは「穏当」な言い方をすれば、ブロンズの塊の物質的存在感から水銀の飛び散りの軽やかな疾走感まで、存在の様態とその質を自在に変換し得るマシンなのだ。あるいは、リドリー・スコットとHR・ギーガーのエイリアンのように身体の内側から隆起してくる「もう1つの身体」、それが舞踏だ。舞踏家の背中がものすごい勢いで丸められていくとき、脊椎の11個が完璧に分離して動かされるとき、そのことがわかるだろう。

在りうべき舞踏?否、現に在る舞踏、室伏鴻を見よ!

October 2000
『Studio Voice』

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