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室伏鴻の未了 

未了のままに──パリより

小沢秋広

独特の青さがある。それを未了とよんでもいい。ひとつの流れが、滔々と大海にそそぐのか細く涸れはててしまうのか、それをみとどけないこと。生まれつつある最中に断ち切ること。切断され凝固する身体。断ち切られるためにこそ生まれるもの。<切断の断面に立つ>身体。刹那。肉体との出会いには、どうじてもこんな瞬間が必要であること。室伏鴻が、「土方巽と日本人──肉体の叛乱」にみたものはこの1点に集約される。刻まれる肉の収縮する力にこそ、肉体が肉体として感知される。意志というより傾向が、その身体を青く染めあげている資質が、「肉体の叛乱」から切り取ってきた<刹那>をいだいて、彼はヨーロッパへ渡った。<刹那>とは、その語の出自をいうまでもなくナショナルなものでも土着のものでもないが、さらに身体に切断面をいれていく行為としての踊りは、一身体がどのような文化的制約をうけてても、そんな枠を越えて成立するものではないか。そんな<カン>にみちびかれて、彼は動く。

ところで、この<刹那>を希求する身体はどんな方法を持っているのか。それは2つあるようだ。1つは、身体に亀裂が走るよう、私小説作家的に混乱したベクトルからなる生活。もう1つは、混乱とか未整理という亀裂をそのまま舞台にのせること。この2つを、危うさの方法と総称することもできるかもしれない。そして、この方法が、出来上がった作品をプロセスの中にときほぐす方向と、プロセスそのものを作品として見せていく方向とに分かれつつ、ヨーロッパの舞台芸術の中に異様な風をはらませたのだ。

<舞踏>とは、踊りの言語でも文化事象の言語でも、この両者を適度に配合した言語によっても語られず、この2つをつなぎとめようとした身体の位相でしか語られない何かではないか。室伏鴻の未了も刹那も、彼の2つの方法が示すように、この位相の中で理解されるべきものであり、このことによってこそ彼は舞踏家なのだ。だから、ここにみなければならないのは、踊りである前に、どこまで未了であり続けられるか、ということではないだろうか。

1986
《漂白する肉体》 パンフレット

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