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鴻/断片

ボリス・シャルマッツ

書き出す瞬間を延期している。それは、出来事が起きてしまった瞬間と向き合わないためだ。彼が、死んでしまった瞬間。今のところ、彼はまだ僕の脳内で微笑んでいるし、彼はまだドイツで教えているだろうと幻想を抱く。

彼のソロをはじめて観たのは、ウィーンで開催されたインプルス・タンツの際、アルセナールにてだった。彼はいつも、グリューバーの演劇を思い出させるような、穏やかにして遠い声で話していた。しかし、それまであんなものを観たことは決してなかった。それは、踊っている室伏鴻。このテキスト、出だしが悪いな。鴻がまるで自分の脳内にいるようだ。しかし彼は、彼とすれ違った全ての人々の脳内、彼らの穴だらけの体内にいる。

初めてのアルセナールの姿、再び思い浮かぶ。僕にとって、あれでも十分だった。彼のような奴があのように即興を行うと、観客が死ぬまで記憶に残るほど香ばしい光景だった。その後、彼と一緒に仕事するチャンスに恵まれた。短い、熱烈な、消えることのない瞬間だった。タンツカティア・ウィーンのスタジオで、「Re・舞踏」と題した夕べで一緒に即興を行った。2人での即興を賢く描写する言葉がない。確かに、窓が割れてしまい、我々の内の1人がそこから1階に降りた。彼に比べて僕はあまりにも鈍重で、中途半端な2頭立てのようだった。その状況では同じ方向に向かうことができなかった。しかし、その方がよかった。もしスタジオで、2人が1つの方向に向かってしまうと、結局「出会い」がないまますぐ終わってしまうからだ。

別府では、焼けるように熱い砂に埋められた。なぜか、我々のあらゆる孔にハンカチを詰めた。東京では、ベルナルド・モンテが合流して、違うダンスを行った。鴻は、「蛍の風呂」に連れて行ってくれた。砂に埋められるという体験は、外から決して観想できるようなものではない。2009年、ミュゼ・ドゥ・ラ・ダンスの前身が公開された時、彼もいた。その後の試みにも付き合ってくれた。ベルリンのトレップタワー公園にあるロシア戦争記念碑を訪れる鴻。彼の周りに、彼の前後に20人のダンサーが20世紀のために踊っているなか、彼はブロンズの兵士を支える石垣によじ登り、猫のようにしゅうしゅう鳴いていた。冷戦と現代ウクライナの熱をまだ留めていた記念碑では、あるダンサーたちは歴史的なソロを演じて、昔の様々な身振りと向き合っていた。しかし彼は自分だけでひとそろいの記念碑であった。彼は、自らの呼吸と探究心をもって、自身の全ての仕事、舞踏、日本、そして近代の幽霊を代表していた。

我々はテート・モダーンにも行った。彼は、あそこのアルテ・ポヴェーラの一室で亡くなってもよかった。あぐらをかく子どもの団体の前で即興を行い、叫んで彼らを怖がらせていた。同時に、ほとんど目に見えないかたちで、作品を保護する結界のロープをくぐっていた。これ以上のものはできない。室伏鴻の芸術に近寄るために踊るが、彼は寛大に全く違うことをやらせてくれる。すると、彼は独りで山の頂点に立っている。メキシコ空港の姿を思い浮かぶ。僕は、土踏まずを曲げたまま地面を踏みつけて、足を上げるのと同時にチューインガムのような音を立てようとして、よく足を痛めた。舞台上でどうすればいいか分からなくなってしまうと、その身振りをする。彼は、その身振りを誰かに教えたのかもしれないが、僕は必ず、多少のけがをする。彼は、アンジェにいる我々に会いに来てくれた。イザベル・ローネー、パトリック・ドゥヴォス、エマニュエル・ユインもいた。ジャンヌ・バリバールとは、トラックの中で土方のテキストと必死に戦った。鴻は本当に寛大だった。我々をがっかりさせることはなかった。大笑いしていた。

ある小さいレストランを思い出す。そこでは、クジラの生レバーを食べさせてくれた。そこに20代の女子学生が2人通ると、彼は完全に興奮していた。彼は快楽を好んでいたのではないか?また、これを説明する上で僕が1番ふさわしい訳ではないが、彼には舞踏を日本から外に運び、死者を呼び起こし、未熟のアーティストにインスピレーションを与え、関係が薄くなりつつある友人たちを結びつける力があった。奇妙な孤独に身を置きながらも、彼はあらゆる記憶と美学を超越する要因でもあった。彼は沢山成し遂げて亡くなった。しかし、率直に言うと、彼のために、彼とともにやるべきであったこと、そして未開の欲のように残るものを考えざるを得ない。その扉は決して閉まることはない。

フランス、レンヌ

translation
大澤 啓
2015
『〈外〉へ!〈交通〉へ!』