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MUROBUSHI ニジンスキーのオブセッション

森下隆

あの日の夜中の電話は、室伏さんのメキシコでの客死を伝えるものだった。
それからの日々は容赦なく過ぎた。新聞社や放送局からの問い合わせ。遺体となっての帰国。弔いの時間。右足の型取り。そして、白骨を拾うことに至り、信じがたいことを信じさせられた
そういえば、ということもあった。ツアーに出発する前日、室伏さんから電話があり、これから成田で前泊し明日発つという。こんなことはめったにないだけに、心によぎるものがあった。12月にはパリに来い、とも言っていた。

1990年9月。旧いアスベスト館が壊されて、新アスベスト館が開いた記念のイベントで踊ってもらった。仮舞台の板の上に卒倒するように倒れ、激しく裸の体を床にぶつけた。後頭部もぶつけていた。その瞬間に、室伏さんに対する私の態度が決まったのである。
それから、2003年3月。まもなくアスベスト館が閉ざされるというので、記念に行った最後のイベント「闇三夜」。この時もアスベスト館の板の上に立ってくれた。この夜は倒体はなく、元藤燁子と優雅に舞った。いやはや見事なデュエットで、私は感嘆するばかりだった。
近年も、室伏さんに時々お出ましを願った。慶應大学日吉のガラス壁の空間でのソロ、同じ場所でのボリス・シャルマッツとベルナルド・モンテとの共演、慶應大学三田での「背面展」に寄せてノグチルームでのソロ、ほかにも、長野・木崎湖の原始感覚美術展では畳敷きの大広間で、秋田の土方巽を記念する会の最初の記念のイベントでは街中のホールで。心中はともかく、どこにあっても嫌な顔をせず、颯爽とした風で踊ってくれた。

それにしても、よくもまあ、室伏鴻の体を脳裏に刻み込むように、その踊りを見続けてきたものだ。国内だけでなく、海外での室伏鴻の踊りも見てきた。もちろん、私が見ていない舞台ははるかに多くある。それでいて、もっと欲していたが、もう十分だったのだ。それ以上、体を痛めることもなかったのだ。
室伏鴻にどういう仕事をしてもらうべきか。大げさに言えば、世界のダンスのために、室伏鴻は何をすべきだったのか。私などには答えることもできないまま、ついには1つの体を失った。それは、1つの固有の世界を失うことでもあった。
フランスのアンジェでの、室伏鴻の仕事は私に強い印象を残している。舞台ではなく、コンテンポラリー・ダンスセンターの若い学生たちを相手にした指導である。室伏鴻による舞踏のクラスは, 1カ月の間、連日朝から夕刻までプログラムされていた。あれだけの空間と時間を室伏鴻に与え、形をなして、形をなさない表現を追究してもらうことが、たえず可能であれば、どうだったろう。もとより、日本である必要はない。
それだけに、パリでの「ニジンスキー」が実現できなかったことは残念である。肢体にランゲルハンス島をまばらにレイアウトしたかのようなコステュームは、言ってみれば、世界のダンサーの身体にMUROBUSHIが細胞浸食して、ダンスを発生させる装置のようにも見える。
パリに出向くこともなくなった。12月にパリに飛ぼうと決めていたのでもない。しかし、見逃してはならないというオブセッションに囚われてもいた。
悔いても始まらない。室伏鴻から私たちに贈られた踊りのシーンの厚い束を、時に展げては慰めとし、時に展げては鼓舞してもらうことにする。そうするほかにない。

July 10, 2015
『〈外〉へ!〈交通〉へ!』