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舞踏崩壊前夜

2000

from Memo

剥がれ落ちる爪や皮膚、脱落する髪とともに生きてきて、すでに崩壊しているものについてはすべてが事後だ。その前夜を語ることはアナクロニズムだ。その後夜を語るのは事後的でこれもまた別の時代錯誤であるだろう。すでに、いつも崩壊しつつ生まれ変わるものの生成変化こそが問題だ。「解釈するな。ひたすら実験せよ。」

ドゥルーズが言う。「さまざまな特異性が相互に延長しあい、ひとつにまとまると、この集合がそのままひとつの概念となり、ひとつの<事件>をあらわすようになります。—これと同じことが内在性の平面でもおこっています。さまざまな多様体が内在性の平面を満たし、さまざまな特異性同士がつながると、さまざまなプロセス、あるいは生成変化が展開して、さまざまな強度が高まったり、低くなったりするのです。」至極、当然だが、概念、<事件>であることが重要だ。

踊りの本質には「他者になる」ことがあって、それはすべての身振りや運動のなかに(すでに・いつでも)他者を発見しつづけることでもある。私は犬にも、女にも、石にも、埋もれた家屋にもなるのだ。他者とはなにか?私(の/へ)砕かれた破片、私(の/へ)散乱する反射。不可解で、理解不能なもの、交流不可能なもの。実に、踊りとは、その交流不可能なものとの交流に道をつけることなのだ。危うい恐怖とともに、笑いながら行くことなのだ。その没入でもあり、同時にまた、その不可能性でもあるだろう。

「出来事の起源は闇に、そして謎に包まれており、その宛先、その送達の行方もまた不明である。」

棍棒のようなもので打ちのめしたかったのだ。打ちのめされたかったのだ。肉が裂け、骨が砕けるまで……だって、すでにいつでもわれわれの肉体は裂け目を生きているではないか。引き裂かれているではないか。

2000
室伏鴻