内野儀
(前略)
身体は攻囲されている。攻囲されるなか、そこに多方向から身体部位に行使される力にあらがうこともできず、ただなすがままになっている。攻囲する力の総体をグローバリゼーションという通俗的用語で了解しようとするのは批評家の悪癖であるかもしれない。それでも、サーラも振付のエルコールもともに女性であるだけに、その力は「男性の視線」であると単純化してしまうよりは生産的なのではないか。いや、もう少し積極的にそのような用語でこの身体を語ることが可能であるかもしれない。というのも、ちょうどサーラと同じ「危機的身体」をわたしはこの日本で目撃したことがあるからだ。
それは昨年十一月、東京・神楽坂のdie pratzeで行われた舞踏家の室伏鴻によるソロ・パフォーマンスにおいてであった。室伏のパフォーマンスもまた、サーラと同じ身体部位の集合としての身体によって行われる。その身体は、同定不能な外的諸力を行使されつつ、フロアをのたうち、その頭はフロアや壁に何度となくぶつかる。そして室伏の顔もまた、「空虚」なままなのである。ここに鍛えられた身体を自在に操る巨匠的・ヴァーチュオーソ的身体を見た気になってはならない。室伏がフランスに長く滞在し、ブラジルをはじめ、世界中を旅していることと、ここで提示された身体のあり方には関係があるとわたしは考えているのである。つまり、旅することは常に「資本主義の端」の空間との遭遇の可能性を与えてくれるのではないか。その空間における身体のあり方に直感的にアクセスすることを可能にしてくれるのではないか。
グローバリゼーションという歴史過程でさえほぼ全面的に隠蔽されている「Jという場所」から一歩でも出さえすれば、いまだ才能あるアーティストたちは、その歴史過程において身体がどうなっているかを直感的に感じ、それを自己の表現へと翻訳している。わたしはサンパウロ滞在中、そんなことを考えながら、どうしようもない無力感を感じつつも、それぞれの範疇で「いま、ここ」を「歴史」に刻印しつつある人たちとかの地で出会えたことにつかの間の喜びを感じることができたのである。