身体というマシン

岡本義文

たとえばオリンピック。栄光めざして身体を酷使し、磨き上げ、人間やればここまでできるのかと思わず唸ってしまうわけで。ここでいう身体とは、何らかの目的を達成するための、いわばとても役に立つカラダ、ややいじわるな見方をすれば、合目的性に縛られたカラダにちがいない。

しかし、目的に奉仕しないからこそ輝く身体もあるはず、ダンスはその最たるものだ。身体から繰り出されるグルーヴに感染し、思わず腰がくねるとき、人は役に立つというケチくさい考えから自由になれる。

が、すべてのダンスが心ときめかすかというとどうも。ありきたりの意味をなぞったり、単にコトバ不在の芝居にすぎなかったり。特に昨今の幼稚なパフォーマンスとやらの弛緩しきった学芸会の延長線上を観ていると、これじゃあダンスが退屈といわれてもしようがない。人より高く跳ぶだの回るだのと胸をはりますが、腕利きのスタジオ・ミュージシャンとジミヘンの違いはどこにあるか、とくと考えてもらいたい。

この秋公演する室伏鴻はブトーの出身。坊主眉なし白塗りのあれですか、と腰が引けてしまいそうだけれど、はっきりいって室伏のダンスを凡百のブトーと一緒にはできない。甲虫みたいな特異な身体が微細に振動し、うねりながら空間を軋ませつつ発されるのは、ずばりノイズ。身体の輪郭が高速度でブレていく信じがたい瞬間に立ち会うとき、観客は、そこにメロディを厚ぼったく変容させて魂を直撃するジミヘンのノイズと同質の力を感覚するだろう。

一方、3000個のコンクリートブロックや鏡の壁といった大掛かりな装置を舞台に持ち込み、空間と身体の関係を鋭く問い続けて来た丹野賢一が挑むのは、衣裳とメイクによって様々なキャラクターを立ち上げ、自分はゆるぎない自分なんだというチャチな自己同一性を揺さぶる試み。ここでも身体が重要なポイントになってくる。

クラい、むずかしいだのといった先入観のくだらなさを笑うためにも、とびきりのダンスで目からウロコを落としたい。

December 2000
『月刊プレイボーイ』

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2000