舞踏家・室伏鴻の白いズボン

鈴木創士

舞踏家の室伏鴻が急逝した。死を踊り、死を演じ、死をねじ伏せてきた者の死。ソロ公演があったブラジルのサンパウロからドイツへ向かう途上だった。

メキシコの空港。日常の雑踏。

ゆっくりとくずおれる舞踏家の肉体。弧を描く大きなシルエット。

シルエットの輪郭は灰色を背景に際立ち、鋭い。だがその縁を流れる時間は緩やかに、突然あらゆる動きは緩慢になり、音は消え、心臓は鼓動を止めた。あらゆるものがゆっくりと停滞してゆき、そして一瞬、ぴたりと停止する。室伏鴻がそこにいた。するとふたたびすべてが騒音のなかに動き出した。

肉体。そこにあり、そこにあったはずの肉体。肉体は肉体だけのものである。そうなのか?その肉体と対をなす蒼白の顔。室伏鴻の死顔はとても美しかった、と彼女は言う。彼は突然いなくなったのだ、と。

暗黒舞踏の踊りがかつて私に花を思わせたことはなかった。大野一雄になら、花の喩えも、花言葉も、そして一輪の花も、彼の仕草に捧げることができたろう。丘の上の一本の古木に鳥がとまりにやって来たのだから。だが、室伏鴻の死の一報を耳にしたとき、私の脳裡をダリアの花のありそうにない映像がかすめた。少しくすんだ薄紫色のダリア。そんなダリアをかつてほんとうに見たことがあったのかどうかはわからない。

金属の肉体が空港の床の上でダリアの花に変化したとしても、花に罪があったのだと誰も言うことはできない。室伏鴻のかつての舞踏の肉体には、どのように見ようとも、合い言葉のように、威厳と優雅が流れていた。血と乳が流れていた。

花は枯れただろうか。花が枯れ、朽ちたとしても、それ自身が他の残りのものすべてとともに消えたとしても、昨日の薔薇はその名のみだとしても、そして肉体が死してもなお、舞踏家の肉体が滅びることはないだろう。

舞踏は恐らく肉体を、ほら、そこの、虚空のなかの肉体に刻んだのである。肉体はかつて肉体のオーラを纏っていたが、この生命のオーラは、とっくに死の芳香を大胆に放っていたからだ。それはいつも別のかたちを必要としていた。われわれはそれを懐かしいと思ったことさえあったではないか。

この死んだ肉体を見ることを拒否できる者はいない。室伏鴻の師であった土方巽が言っていたように、舞踏家の肉体とはそもそも死に物狂いの死体であったからである。それは丘の上に、軒先に、地下室に、路傍に、水辺に、陽だまりに突っ立っていた。この肉体の廃墟のなかに。この井戸のなかに。この消滅のなかに。この不敵な別のかたちのなかに。別の誰かがそれを知ろうが知るまいが。

室伏鴻の誰が見ても美しいと思うはずの肉体を瞼の裏側で再現しようとしたら、なぜか吉田一穂の「后園」という詩を思い出した。裏側に写映されたものがもし言葉だったとしたら、それは僥倖であったと言わねばならない。一見、この詩が彼にはそぐわないように思えたとしても、それはただのつまらぬ肉体の錯覚というものである。

明るく壊れがちな水盤の水の琵音。
(日時計の蜥蜴よ)

光彩を紡ぐ金盞花や向日葵の刻
泪芙藍がその黄金を浪費する時

微風に展く頁を押へて指そむる蒼翠の……
御身、額の白く香ぐはしの病めるさ。

『海の聖母』

陽を浴びた日時計の上でじっと動かぬ蜥蜴は、さっきまで闇のへりを食べていた。かすかに発光するかのような暗がりから出てきて、背中を曲げ、油を流した背中はてらてらと赤銅色または青銅色に光っていた。優雅な蜥蜴はいつまでもぴくりともしない。

ついさっき土方巽についての宇野邦一のエッセイ「土方巽の生成」を読みながら、肉体の生み出す軋轢について考えていた。土方の精神はその軋轢をほとんど楽しむほどの大きさと倒錯をそなえていた、と宇野邦一は言っていた。それならば、だからこそ肉体は肉体の軋轢をいたるところに生み出すのだと私には思われる。したがってこの精神とはまた肉体のことなのではないか。精神から離脱した肉体は何度か私にそう教えてくれたのだった。

そしてこの倒錯は肉体の彷徨い自体のなかにあって、はぐれてしまった肉体は、今度は、巨大な肉体に「わが肉体」それ自体を象嵌するように、自身の古い肉体を裏返しに拒否し、もう一度あらゆる肉体に命令するのだ。ダンスは明瞭な無為なのだから、それが苛烈な闇と接し、この暗黒に溶けてしまうのをとどめることはできないし、同時にいつもその手前に踏みとどまっていたのである。

室伏さんを個人的に知ったのはわりと最近のことだが、見たのはずいぶん昔のはずだった。彼は1972年に麿赤兒氏とともに「大駱駝艦」の旗揚げに加わった。見たといっても、たぶん「大駱駝艦」でのことなのだから、あの混乱のなかで、誰が、あるいはどれが、室伏鴻なのかは知る由もなかった。

当時、私がまだ不良少年の頃のことだが、神戸の溜まり場だったジャズ喫茶に「大駱駝艦」のメンバーが勧誘にやって来たことがあった。君たち、舞踏やらないか? 

暗黒舞踏がどういうものであるのか何となくはわかっていたつもりのまだ生意気盛りの私が、即座に、丁重に、お断り申し上げたことは言うまでもない。……。自分の肉体のことなど何が何だかわからなかったし、ましてやそいつをどう扱うのかなんてわかるはずもなかった。私がこの肉体とは別の肉体を探していたことは確かであるが、当時、自分のことなどどうでもよく、いつも私はうわの空だった。

実際に声をかけてくれたのは、ビショップ山田氏か天児牛太氏かのどちらかだったと思うが、はっきりとは思い出せない。そのことを室伏さんに話したら、少しは驚いてくれると思ったのに、彼はちっとも驚いた顔を見せなかった。ただ優しく笑っただけだった。ほんの少しだけはぐれた肉体がかつてどのような体たらくであったのか、それがどんな風に自分を殴りつけていたのか、自分の皮膚をどんな風につまんだのか、そんなことなど彼は熟知していたからだと思う。

急いで室伏鴻の舞踏公演の映像を見直してみた。2003年にアスベスト館で、故土方巽夫人の元藤燁子さんと一緒に即興で踊った映像がある。元藤燁子と踊るのは始めてのことだったらしいが、この土方の未亡人であった舞踏家はその同じ年に死去することになる。

帽子と蜘蛛の巣の踊り。舞踏家たちの背後には3枚の真鍮の板がぶらさがって揺れていた。その1枚は師土方巽のためのものである。その舞踏の後半、室伏の踊りはいっとき激しくなり、声を発し、真鍮板をなぐりつけ、蹴り、ときには優雅に、ときには暗黒舞踏を忘れたように背中を伸ばし……、それを見ながら私は感動を覚えるのをどうしてもおさえることができなかった。最後のほうで、室伏鴻の目に涙が光っているのがわかった。映像を前にして、明るい残酷な鏡に自分を映すみたいに、思わず私もまた椅子に座ったまま手と上半身だけで踊っていた。ひとりで、室伏鴻とともに。彼岸の室伏さんはきっと失笑していたことだろう。君は今頃になって僕と一緒に踊るのかい。そんなひどい病んだからだで……

去年の12月、京都でお会いしたばかりだった。4月の終わりになると花水木が白い花をつける狭い通りにある地下のレストランに入った。ビールとワインを飲んで、食べた。われわれは5人だった。室伏さんとマネージャーのWさん、丹生谷貴志、Hと私。私は何度も彼の顔と目をまじまじと見た。室伏さんの目は優しい。何となくまた一緒に何かやれると思った。

じゃあまた、と言って通りで別れた。振り返ると、Wさんと一緒に遠ざかってゆく彼の後ろ姿が見えた。コートの下から白いズボンが見えた。世界とズボンがあり、世界のなかに白いズボンが見える。舞踏家のズボン。それが世界のなかを、雑踏を通り過ぎていった。

鳥は落ち、マントーは黙り込み、ティレシアスは何も知らない。
無知、沈黙、そしてじっと動かない青空、そこに謎かけの答え、ごく最近の解答があるのだ。

サミュエル・ベケット「世界とズボン」


現代思潮社サイト 201574日より転載

July 4, 2015
『〈外〉へ!〈交通〉へ!』