リヒャルド・G・フランク
鴻が去った。飛び立った。病院に運ばれている最中、ヘリコプターで亡くなったと聞いた。事実かどうか知らないが、その可能性を好む。架空の鳥の名前を名乗った人として、高度数百メートルの空中を飛びながら、その後降りることもなく亡くなってしまうとは、明白なことだ。高揚を目指す存在としてのダンサー、それは美しいイメージだ。それを鴻に充てるのは珍妙なことで、滑稽に等しい。なぜなら、鴻は空中よりも地面で踊っている方が多かったからだ。振り付けのなかで、たまに垂直に大きく飛躍することがあっても、地面で動くのが基本だった。彼は這い、匍匐し、空もしくは無を求める獣のように四つん這いで舞台を渡っていた。2005年2月のある夜、アヴィニョンの舞台で彼はそのように僕をつかんだ。銀で塗り尽くされた裸体は地面に倒れていて、腹からエネルギーがごろごろと鳴り、様々な液体が飛び散っていた。空、無、虚無、純粋な動き。鴻はそれら全てを、慎みなく自発的に踊っていた。僕は、人生でこんなものを見たことがなかった。舞踏というプラクティスについて何も知らなかったし、興味もなかった。当時、それはどうでもいいと思っていた。僕にとって、分野、枠組み、規則や作法のようなものはなかった。ただ、叫びながら体から自身を引き抜き、その存在を捧げるダンサーがいた。鴻、彼がただいた。僕は舞台で、すでに彼に魅了されたのだ。しかし、舞台の外で彼のことを本当に気に入った。暗いマントーを羽織って、白いスポーツシューズを履いて、帽子を被って道を歩く姿を思い浮かぶ。品格があった。格好よかった。当然、タバコを吸いながら早足で歩いていた。ビールを1杯、2杯、時には3杯も飲みながら、ダンス、そして特に文学について会話した。彼はカフカ、ドゥルーズ、バタイユについて言及していた。当然、彼が親近感を持っていた、先見の明のある人たち。僕は感動し、魅惑された。そこで、彼について映画を撮りたいと思った。
数年前、その思いを実現させる機会がった。鴻が踊るポートレートを撮るために、東京に向かった。東京は彼の縄張りであったが、そこに住んでいたというよりも、彼はそこに滞在していた。彼とは親しくなかったので、撮影のことを考えると緊張した。お互いに気にかけず振る舞い、信頼できるまで、多少の時間がかかった。そして、働き始めた。カットごとに、撮影しているものが本当に存在しているのか、疑問に思った。鴻は美しい。信じられなかった。強烈な吸引力があった。映像は限りなく美しかった。以来、それ以上美しい映像を撮った覚えはない。訃報に接して、一緒に撮った映画を改めて観た。すると、彼と共に過ごした滞在の思い出が自然に現れて来た。それは雰囲気や状況の思い出。ある日、午後に亘って築地を占拠した。暗い衣装を着た鴻は、汚れた魚市場の地面で踊っていた。どの獣の真似をしていたのか分からないが、うなり声をあげていた。素晴らしい光景だった。もちろん、主に仕事の時間だったが、それとは別に、その前後に様々な時間があった。舞踏以外の、鴻の人生。僕にとって、それが一番強い、根強い、面白い思い出だ。ある夜、僕とスタッフをパチンコに連れて行ってくれた。彼は名手だった。その技を僕らに教えてくれようとした。でも、その期待に応えることは決してできなかった。僕らは、とりわけ僕は、全く下手だった。玉が落ちるべき孔に落ちてこない機械を前に苦戦している我々を見て、彼が大笑いしていたのを思い出す。彼は笑い、僕らも笑った。鴻は愉快で寛大だった。鋭い精神を持っていた。また、彼には嘲弄するようなところがあって、僕はそれが好きだった。常に、物事を軽く考えているようだった。まるで、人生の悲劇が彼を追い込むことがなかったかのように。それは当然無理だが、彼は気取ることもなくそのように見えた。例えば、撮影の6ヶ月前に起きたフクシマについて質問すると、彼は簡潔に、控えめに答えた。無礼に近い、パンクのような逆らった態度で、格好良かった。鴻らしい姿だった。実際のところ、彼はすべてに対し、つらい思いをし、何も軽く見ることはなかったのだろう。彼は全ての悲しみ、苦しみ、暗い思いを舞台のために培い、舞台のみで噴出させていたのであろう。舞台上の混沌でそういう思いを集中させて、叫びと動きをもってあらゆる凡俗を払拭していたのだ。舞台上で存在し、それ以外で生きていた。完全な皮肉。真率な行動。並外れたアーティストにしか、こういうことができない。
鴻はいずれヘリコプターから出るが、空中から降りることはもうない。宇宙は無限で、そこでは遊び場は十分広い。そこは、やるべきこと、遊ぶべきことだらけだ。彼が踊り続ける上で、新しい展望が現れた。その広大な宇宙で、彼はビールが絶えず流れていて、喫煙が義務づけられている場所を見つけたのに違いない。それをみんなで喜びましょう。