室伏鴻さんを送る

細川周平

鴻さんが南米からベルリンへ向かう途中、メキシコシティ空港で突然斃れたと聞いた時には、信じられないと同時に、あいつらしい場所とタイミングだと拍手を送りたい気持ちで一杯になった。定位置を持たない人生、宙ぶらりんのなかで燃焼してしまうような舞台をそのままトランジットの空港で再現してしまった。高地の空気を計算していたかのように。

最後に会ったのは、年前、横浜赤レンガ倉庫の連続公演だった。自分で踊るほか、ラテンアメリカと日本の弟子が似た気合と身振りで踊るのを見て、30年前、1983年から翌年にかけてモンペリエ、モデナ、メッツでワークショップを手伝ったのを思い出した。人のダンサーはそうしたワークショップで発見した有望株だったのだろう。そのころはウォーミングアップに会場を駆け回るだけで新鮮な体験だった。伴奏によく使っていたロキシー・ミュージックを聴くと今でもあの風景を思い出す。こちらもからだを動かし、彼の面倒なコメントを何とか伝えようと努力した。「おまえ、訳せ」と無理に哲学的な身体論を語られてもこちらはごまかすばかりだった。たいていは言葉よりも先に理解させて、通訳は無用だったが、一緒に旅するのは楽しいことこの上なかった。

生徒のうち数名はパリの住まいまでクラスを受けたい、ダンサーの募集はしていないのかと言ってきた。たいてい女性だったのは、アリアドネの会への振付の仕事がよく知られていただろう。人の輪がどんどん広がっていった。前後は覚えていないが、ベトナム戦争の枯葉剤の影響で両方の指の数がそろっていない兄弟のアパートに招かれ「インドシナ」の話をしたのを、その後ベトナム料理屋に行くたびに思い出す。今でも印象深いのはマルセル・マルソー・マイム学校に呼ばれて小さな話をしたときだった。マルソー氏も後から現れ感謝の意を伝えると、鴻さんは照れていた。

知り合ったのはカルロッタ池田(嗚呼、彼女を追うかたちになってしまった!)のアリアドネの会が、留学生として住んでいたボローニャで『ツァラトゥストラ』を上演したときだった。地元メディアに通訳を頼まれリハーサルの時点から劇場に入り、その白いハンチングの鋭い目つきの男を紹介された。髪をそり落として頭蓋のかたちを露わにし、こちらをたじろがせた。型通りのインタビューの後、アナウンサーが最後に「オオカミの口!」と彼にほほえみかけたのを直訳して、場が白けてしまったのを覚えている。イタリア語では慣用句で「オオカミの口!」「食われちまえ」というやりとりが「頑張って」「頑張ります」なのを知らなかったのだ。

その夜の舞台では塩降り注ぐフィナーレに息をのみ、打ち上げで波長が合うのを感じた。『ツァラトゥストラ』のプログラムはニーチェの引用から成り、ぼくはいささか現代思想にのめりこんでいたので、こういう舞台化があるのかとすべて圧倒された。白塗りの女たちが獅子のポーズを取り、人間やぐらを組み、塩に打たれて固まっていくのは強烈だった。ことばによる議論とは別の次元で、ことばにならぬが、ことばに触発された動きをからだが作り出すことを教わった。踊り手が哲学を意識しているというのではないし、プログラムを読まない観客が何を受け止めるかは別のことだ。ボローニャでの出会いの数ヵ月後、初めての仕事として南仏モンペリエでのワークショップを手伝った。終えてパリへ帰るTGVの数時間で中公文庫で『ツァラトゥストラ』を読んだのは、生涯忘れられぬ読書の瞬間だった。内容の理解はおぼつかないが、アリアドネの会の2時間ほどの舞台と同じぐらい濃密で飛ぶようなひとときだった。

山伏の修行と木乃伊が彼の暗黒舞踏時代の出発点で、最後まで孤立、異形、死のテーマに執りつかれていたようだった。横浜で56年ぶりに見た作品は「墓場で踊られる熱狂的ダンス」「Dead 1」と題されていた。「変わんねえだろ」と自嘲するような口調で話しかけてきた。踊りながら「つぶやく」と空間に隙間ができるが、次の瞬間にはそれが縫い合わされ別の緊張が生まれる。20年前にはなかった言葉の介入は、舞台の印象を変えた。舞踏派背火と称していたように、少し前に曲がった背中に殺気が漂っていた。お得意の痙攣と真後ろ倒れ込みのクライマックスでは、客席の緊張が一瞬でピークに達するのをよく共有した。それは音響担当として客席後ろにいても伝わってきた。ぎょっとするだけで嫌悪する客層もいただろう。終わるやすぐに去っていく客が必ずいた。しかしそこで何が起こったのかわからないまま立ち上がれないような人も必ず数名いた。

彼は舞踏を始めてすぐにランボーから採った題名の『激しい季節』という1号新聞を出版したのを誇りに思い、こういうのをフランス語で作ってほしいと頼まれた。そこに収録された文章や演出ノートの言葉・詩から「室伏鴻かく語りき」なる文章を切り貼りし、舞台歴や舞台写真を並べてフランス語のパンフレットを作った。形に残った唯一の共同作業である。彼は1978年、暗黒舞踏の最初のヨーロッパ進出としてアリアドネの会の『最後のエデン』をパリで公演した。それ以来、いろいろなアーティスト、批評家の人脈を持っていた。以前アリアドネの会を見ていた文学者ジャン=ミシェル・パルミエの自宅に押しかけ、原稿をもらうことに成功した。『ツァラトゥストラ』のパリ公演にはボードリヤールを招待し、後から2人で自宅に押しかけて原稿を依頼した。彼は多忙ななか約束を果たしてくれた(手元に残っていないのを残念に思う)。舞台の世界とインテリの世界に接する感覚は、現代アート思想少年の大いなる刺激となった。

ボローニャでの出会いから1年あまり、生活の半分はモンパルナス近く、ゲテ通りの彼の天井部屋に居候し、パンフレット編集とワークショップやステージのつきそい以外はほとんど何も課せられないまま、好き放題に暮らした。アパートには彼の住まいとは別に物置部屋があり、そこの硬いベッドをねぐらとした。6階だったと思うが、エレベータはなく20代の体力でも途中で一休みが必要な長い長い階段を上り下りしなくてはならなかった。彼の住まいは床も壁も白く塗ってあり、やや傾いていた記憶がある。縦長の窓からはモンパルナス墓地を臨めた。遅い目の朝食に徒歩5分にある有名なカフェ・クポールによく行った。彼はいつもロスマンス・ブルーを喫いながら、馬鹿話に乗ってきた。詩のような言葉と引用の並んだノートを見せてアイデアを語ってくれた。人を震わせてたじろがせるような冷たい舞台と正反対に、舞台裏では人優しく冗談がきつい思索家だった。それは幸いぼくが仲間と認められたからで、万人に対して愛想が良いというのではなかっただろう。

1年あまりのつきあいの仕上げとなったのは、19847月、『イキ』のイタリア・ツアーだった。「イキ」には息、生き、粋が含まれていて、例によって哲学的なプログラム・ノートがついていて翻訳を手伝った。彼を前から応援していたプロデューサー、ロベルトとヴェリアの企画だった(ロベルトはその後まもなく亡くなり、ヴェリアはずっとイタリア・ツアーに関わったと聞いた)。その最終日、ローマの野外ステージでは前々日に急に言われて舞台に上がった。現在は山海塾のメンバーで当時は大道具係の竹内晶、助手をしていたダンサー志望の島田と3人で、白装束にロウソクを持って水を流した舞台を横断する程度の動きだったが、数百人の観客を前にした「初舞台」は緊張ですくんでしまった。終了後、火が風に飛びそうだったと弁解したが、「お前だめだな」と叱られた。そのときの腰抜けぶりをその後ずいぶんの間、身振り表情つきでからかわれた。

こうして鴻さんとの1年あまりは過ぎていった。舞台作りにかかわった経験は翌年5月ジェノヴァで開催された「日本 未来の前衛」フェスティバルのスタッフとして雇われたときに大いに役立った。しかし長い目で見れば、それよりも彼の素顔と舞台の顔、思想と表現に至近距離で触れたことが、一生の宝物だった。綿密な準備のうえで、彼の舞台は予定の高さを一瞬で越えてしまう。考え抜かれた言葉は蹴飛ばされ、からだがそそり立つ。そしてぶっ倒れる。その緊張した質感は他に代えがたい。そうした超越的な体験はそう何度も知らない。白塗りの半裸体でかがみこみ、西洋的な身体のバネとは違った力学を使ってぴょんぴょんとはねる後姿が今また蘇ってきた。座右のことばとしていた土方巽の「命がけの跳躍」を文字通り体=現していた。はっと息を呑む動き、あの鋭い背中を思い描くことで追悼としたい。

2015
『〈外〉へ!〈交通〉へ!』