伊藤愉
「コウ・ムロブシをモスクワに呼びたいんだけど」と身体の大きいロシア人舞踏家に言われた。世界的に有名な舞踏家の、彼の踊りを生で観たい、彼に舞踏を教えてもらいたい、と。
2012年11月末、モスクワのドモジェドヴォ空港で室伏さんと渡辺さんが到着口から出てくるのを彼と2人で待っていた。室伏さんにメールを出し、マネージャーの渡辺さんとやり取りを重ね、ヨーロッパ・ツアーの最後にロシアでのワークショップと即興公演の予定をねじ込んでもらった。到着口から出てきた室伏さんは夏用の薄いズボンを履いていて、挨拶をすると、「ああ、こんにちは」と少し疲れた顔で短く答えた。
モスクワの寒さは濃淡がないままに空気を震わせ、ただ雪だけが降り積もり、踏み固められ、雨が降れば、風が凍らせていく。それは少し室伏さんの踊りに似ています。モスクワ川にかかる橋の上を渡辺さんに支えられながら室伏さんがゆっくりと歩く。
打ち上げで、あるロシア人が、逆さまに足をあげたときなんと言っていたんですか、と訊いた。室伏さんは「「万歳」って言ったんだ、逆さまになって「万歳なんていわねえぞ」ってことだな」と子どものように笑って答えていた。底抜けに優しかった。
公演はモスクワ中心地のオトクルィタヤ・スツェナ、日本語で言えば「開かれた舞台」という地下にある劇場で行われた。外は冷たいみぞれが降っていた。50人ほど入れば満席の小さな空間が、倍以上の人数で埋め尽くされた。何も置かれていない舞台に、室伏さんの身体がうごめき、足を床に打ちつけ、何かを考えるようにゆっくりと歩き回り、倒れ込む。白い花を咥え、遠吠えのような声をあげ、空間を絞りあげる。室伏さんの切実な踊りに応えるように、観客は誰ひとり身動ぎしなかった。
上演後、室伏さんを呼びたいといった友人は劇場の裏口で、感情が抑えられない、と1人むせび泣いていた。それから、室伏さんが大好きだ、と言った。
室伏さんに向けられた焦がれるような憧れの蔭で、僕もまた室伏さんに惹かれていました。それをはっきり口にすることは出来なかったけれど、室伏さんは、いつも愉しそうに話を聞いてくれた。僕の中の室伏さんの記憶は、風荒ぶユーラシア、モスクワの凍土に立ち、そこで煙をくゆらす姿です。笑っています。