中原蒼二
昔々、三島由紀夫の話になた。
「三島って、若さにおいて書いた、若さの文学だよね」室伏さんがいった。三島が45歳で亡くなってから2、3年後のことである。われわれは23、24歳だった。
'人間は、青春が失われることが悲しいのではなく、いつまでも青春の残り火が身体に燻り続けているのが悲惨なのである'とかなんとか、どこかに三島が書いていたぜ、とぼく。
わたしたちは、今から思うと「時間」の話、失われる時の話をしていたのである。
室伏さんが急逝された。
失われた時を思う。そして絶対に回帰することのない時間への愛惜と、それへの断念を迫る。
身体が、思考や精神を一切持たぬ身体が、いかにして思考や精神と切り結ぶか。思考や精神が、身体そのものの生成であることを自らの身体をもって示そうとし「天皇制=日本的アニミズム」に回収されないダンスを課していた、極限で。
土方さんが、晩年使われていた「衰弱体」に変わる言葉を、室伏さんならばなんと言ったろう。
唯一者が失われた。
晩年、晩秋の鎌倉に彼は現れた。いつものコートと白いズボンを着用し、目深にハンチングをかぶっていた。
「来年、パリかウィーンに来いよ」交わした最後の言葉だ。
身体の残酷さそのものを見ようとした人に、青春から老いへと向かう一本の連続した時間は流れない。
さようなら、室伏さん。あの日、去っていくあなたに向かって、小さな声をかける。