──日本の中の異邦人、身体の中の異邦人
カティア・チェントンツェ
2015年6月、日本を代表するダンサー室伏鴻の突然の死は、日本のダンス界にとってとてつもないショックだった。室伏はダンスの新しい感性を世界中に広めた。生の肉体をふるわせて、独自の身体芸術を追究し、多くのアーティストや観客を挑発し続けているところだった。
舞踏/Butohを海外に広める中心的な位置を占めていたのが室伏であった。「背火&アリアドーネの會」に振り付けて、パリで1978年に上演された『最後の楽園 (Le Dernier Èden –Porte de l’au-delà)』 の時から、世界中のコンテンポラリーダンス界にも刺激を与え、新しいダンスの方法と流れを喚起し続けていたのも彼だ(Centonze 2006; 2010; 2014; 2015 参照)。
コンテンポラリーダンスと60年代の前衛であった舞踏とを結び付け、舞踏の実験的試みを刷新した役割も大きい。そうして彼は、若いダンサー達と活動を共にし、彼らの身体を鍛え続けていた(Centonze 2010; 2014)。
室伏は、土方巽が行ったダンス革命の最も重要な継承者の一人であったことは疑いがない。アンチダンスという師のラディカルな企みを育みつつ、それに対する自分自身での答を練り上げて独自の道を歩んだのだ。
私が室伏鴻に最初に会ったのはラヴェンナで行われたフェスティバル、Ottobre Giapponese(「日本の10月」第1回、2003年)の時だった。総監督のマルコ・デル・ベネが私に舞踏セクションのキュレーションを任せてくれたので、私は捨て身の覚悟で敬愛するダンサーの室伏鴻にお願いをした。驚いたことに、彼はすぐに了承し、照明のクリシャ・ピプリッツを連れてはるばる来てくれた。ビザンツの街ラヴェンナでは、室伏の力強いワークショップや私の講演が行われ、ラシ劇場で上演された彼のソロ『Edge 01』は感銘を与えた。あれほどのアーティストが、初めて会う私のような者に対してあまりに気さくでオープンなのに驚いたその時以来、友人としての関係がずっと続いた。時には果てしない議論を行い、時には言い争いになることも、この友情あらばこそだった。
ラヴェンナでのイヴェントからしばらくして、私は1年間のリサーチのために東京に赴いた。それは彼の作品にじかに立ち会える絶好の機会だった。男性ダンスカンパニー「Ko & Edge」を立ち上げばかりで、彼は公演の前も、終わってからも、いつも私を巻き込んで議論をしていた。Ko & Edgeの『美貌の青空(2003)』、『Heels (2004)』、女性のカンパニー「ダンス01」の『ジゼル(s) (2004)』、彼自身のソロ『すべてはユーレイ (2004)』などが上演された頃だった(これらの作品についてはCentonze 2008b; 2009 を参照)。
2005年、オルヴィエートのマンチネッリ劇場で行われたアリアドーネの會の『Zarathustra』(再演)に、彼は私を招いてくれた。売り切れになったその公演は、各地から訪れた観客で溢れかえっていた。
翌年の2006年、私はヴェネツィアで室伏と一緒に数日過ごした。もう1ヶ月以上も前から、室伏の銀色の身体のポスターでヴェネツィアは埋め尽くされていた。ヴェネツィア・ビエンナーレの国際舞踊祭のその年のテーマは「皮膚の下 (UnderSkin)」であり、そのために伊藤みろが撮った写真だった。室伏は、ソロ『quick silver』を2日間上演したが、1日目と2日目は、美学的な顕れにおけるテンションも色合いもまったく異なり、彼自身の別の面と異なるパフォーマティヴな行為を探ろうとしているように見えた。
その1ヶ月後にわれわれは再会した。室伏は、ヴェネツィア・ビエンナーレの第50回音楽祭で上演されたフリオ・エストラーダの『Murmullos del Pàramo』に出演した。
2007年、私の地元レッチェの田舎で開催されたフェスティバル Torcito Parco Danza I に、アンドレア・パーティとアンナマリア・デ・フィリッピと私とで室伏を招いた。私たちは、「ATNARAT」と題したサイト・スペシフィックなプロジェクトで、タランティズム(舞踏病の一現象)に関するポスト・モダンの神話を覆し、身体の歴史的重要性を再考しようと企画した。これは、文化的抵抗としてのタランティズムと舞踏に関する私の比較研究にもとづいた実験であった(Centonze 2008a)
さらには、この両方の現象に見られる死体のイメージを、このサレント地方──太古の石に囲まれ、弾圧と自己防衛の積み重なる歴史を持つこの地方──の厳しい自然の中で蘇らせたいとも考えていた。この異文化交流において、自分たちの歴史を書き換えようとしていたこの地のノマドのようなアーティストたちは、室伏のアイデンティティによってさらなる屈折を経験することとなった。その一方で、ドゥルーズ的ノマド性にこだわっていた室伏も、上演地のコンテクストの中に自らを映し出した。
室伏は2回上演した。最初の夜は、『quick silver』を特別版で再演。室伏の激しく炸裂するダンスは、観客に戦慄の波をひろげた。メタリックなアクリル・ペイントで覆われた裸体で繰り出す荒々しく暴力的な即興が、会場全体で展開され、空間そのものが有機的に活性化した。彼の肉体はまさに食細胞のように環境を食い尽くし、静寂が支配する会場を激しく攻撃した。その夜の室伏は、まったく妥協することなく、その場との対立的関係を表明したのだ。
タランティズムと舞踏とを組み合わせた私たちの企画は、これ以上望みようのないものとなった。室伏のパフォーマンスはただただ素晴らしいものだった。水銀がそうであるように毒でも薬でもある『quick silver』は、まるで毒蜘蛛のようにあたりをはいずりまわり、日本のアヴァンギャルド(室伏鴻)とサレント地方特有の現象(タランティズム)との間の闘争に火をつけたのである(詳しくはCentonze 2011)。
毒されていつつ、毒でもある、銀に塗られた彼の肉体は、様々なものに感染しながら揺動する彼のアイデンティティを反映しているようだった。そのようなアイデンティティの問題こそ、室伏がずっと追い続けていた問題だろう。
『quick silver』について、彼は次のように書いている:
「毒でもあり、薬でもあり、いまや無用にされたものとは、水銀、マーキュリー、メルクリウスですが、それは私たちのはぐれた身体でもある。(その答は、それが応答であり、伝令だから。)
私の身体技法のなかに、筋肉・骨・皮を硬直させ、バラバラに解体してしまう、あるいは全身を極限まで硬直させたところで一気に弛緩させる、内部と外部に隔てられた皮膚感覚をメビウスのように還流させ反転をさせてしまう、というようなものがあるが、毒薬の致死量や、絶対的な速度はいつものんでみないとわからない・・・・・一回のみの永遠?」 (室伏 2005)
室伏は最後の息を吐くまで、ダンスという形式を辛辣に問題視し続けていた。それゆえ、そのラディカルな反逆が、ダンスそれ自体をも貪り食い尽くしたのがはっきりと見えてくる。パフォーマンスにおいて、彼は絶え間なく、死と、崩れゆく体に対峙していた。1970年、彼は日記でこう宣言している――、「死のうとして 踊りをはじめた」(室伏鴻、2015)。
死、外、そして彼のアンチダンスは、密接に関連している (Centonze 2013)。小松亨に振り付けた作品『シスターモルフィン』のプログラム・ノートで、彼は次のように書いている。
小松享の、果てしなき変形=モーフィングのために
シスター・モルフィン( Sister Morphine) はたえざる自己解体を踊る。否、彼女は踊ることができない。瞬間と持続。そうして彼女は踊ることを止めることができない。
なぜならほかならぬ彼女の死が彼女の生をもたらすからだ。
それは、〈われわれを限りなく失明させるような力である〉。それは、〈われわれの絶えざる死、けっしてわれわれのものとして所有することはできず、つねにわれわれの外にあるが、しかしつねにもうそこにある、そこに痕跡として刻まれているわれわれの死にほかならない〉。
(〈……〉は、小林康夫「不可能なものへの権利」からの引用)(室伏 2013)
室伏の行為と美学を支えていたのは、このような深い探究と知的な考察だったのだが、しばしばそれは模倣しやすい様式として受け入れられてしまった。だが、いうまでもなく、室伏の舞台における存在感は、かけがいのない、再現不可能なものだ。それは、彼の肉体作品が、そもそもつねに実験であったからだ。だから、彼のワークショップに数回参加しただけで舞踏家になれるわけはないし、もちろん彼の芸術の本質を摑むことなどできるわけもない。
室伏は、自己を、彼の対抗言説を、そして舞踊的 (choreic) なほどの探究を、多くの思想家へと常に投影していった。さらに彼は、哲学的思索と肉体的上演とのへだたりを縮めることができた。彼のダンスによる探究を支えていた観念を裏切ることなく、彼の「肉体」は、彼を引きつけてやまなかった観念的思索に具体的に応答したのである。
この偉大なアーティストは、つかのまの身体で危険な限界まで突き進んだが、決して自分の技をスペクタクルにしようとしたわけではない。対立する力は、肉体に具現された矛盾とパラドックに育まれたダンス/アンチダンスの中に入り混じっている。
ダンスを政治的行為として行う彼の強い関与は、しばしば誤解された。体制に対する断固たるスタンスのため、彼は孤立や独立を余儀なくされたこともあった (Centonze 2008b)。彼の政治的関与は、アーティストとしての首尾一貫性と同居していたのである。告発と叛乱がしみ込んだクリティカルなダンスで、彼は社会問題に切り込んでいったのだ。その意味で室伏は、体制へのゲリラ攻撃としての土方巽のアンチダンスの企みを実現したといえるだろう。
室伏は最期まで、純粋性を保持し追求していた。彼のダンスのスタイル的、様式的純粋性という意味ではない――とはいっても彼のダンスは高度に洗練されていたが。ここで言っているのは、彼のパフォーマティヴな行為を裏打ちし自身の肉体への飽くなき挑戦を表明する、彼の身体的な対抗言説における純粋性のことだ。芸術における神秘化、スピリチュアル的目的、宗教的な目的に対して彼は非常に嫌悪を抱いていたので、そうした彼の歪んでいるリリシズムは、強烈な反虚構的瞬間を生みだした。これらの瞬間は、演劇的行為の「物語性」(narrativity) のみならず、日本人としてのアイデンティティが内包する「物語らしさ」(narrativeness) とも常に衝突し続けた。
彼の動の静は、血と皮膚の間の絶え間ない戦いを表している。彼の身体は日本人のアイデンティティに絡め取られているように見えるかもしれないが、同時にそれを問題視し挑発しようと、彼は彼の母国語で可能な限り熱く語り続けた。こうした軋轢が、ここ数年来、日本の外に場所を求めて彼を外国へと急き立てたのかもしれない。海外では、室伏鴻はKo Murobushiとして知られている。
私は彼の家の近くに、2007年から住んでいる。私の家と彼の家は神田川で結ばれていて、その川辺に咲く桜を彼はこよなく愛していた。この8年間で、私達の信頼関係はますます強くなってきたところだった。彼の作品は『ミミ』(2007)、『a ball』(2009)、『背面』(2012)、『Krypt』(2012) などを見てきた。彼が主催したフェスティバル『〈外〉の千夜一夜』(2013)もあった。そして、六本木・アートナイトでの即興『Dancing in the Street』(2015) が東京での最後のパフォーマンスになってしまった。彼は母国に長く不在だった、絶え間なく海外ツアーを続けていた、それも納得できる。日本の演劇・ダンス界がもっと室伏鴻に注目し、採りあげてもらいたかったと思う。
Katja Centonze│カティア・チェントンツェ
ヴェネツィア大学東洋学科卒。専門は日本の舞台芸術(舞踏、コンテンポラリーダンス)。99年から2003年までヴェネツィア大学東洋学科非常勤講師、2005年から2009年までカラブリア大学非常勤講師。国際交流基金2009年度日本研究フェローとして早稲田大学演劇博物館にて「身体論と技術:舞台芸術から土方巽の舞踏へ──パフォーマンスとテキストにおける身体とメディアをめぐって」をテーマに研究。現在、早稲田大学学術院非常勤講師、早稲田大学演劇博物館招聘研究員、国際日本文化研究センター共同研究員、トリアー大学(ドイツ)博士課程。編著書に”Avant-Gardes in Japan、Anniversary of Futurism and Butō: Performing Arts and Cultural Practices between Contemporariness and Tradition”(2010年、Cafoscarina)など。