Edgeが立つ/復刊によせる

2001

from Article

踊りは汗をかくものであって、記事を書いたりするダンサーにロクなのはいない──そう考えるのがマットーか。ダンサーであることと新聞社をやることはフツー結びつかぬ。だから〈激しい季節新聞社〉だったのだ。『激しい季節』、それは劇団のビラでも、機関紙でもなかった。それが、「出来事」として「成ること」を企図したのだった。結びつかぬものに結ぶこと。

出来事とは虚構か真実か?それは〈虚構−真実〉だ。そのあいだのあわい両義的な、際どい縁で、清濁あわせ呑んだ事件のうさん臭さといかがわしさとをマトイつかせ、そうして踊り手たちの垢と汗にまみれた生理が行間から類い稀な〈肉体性〉を立ち上がらせている、官能的な悪魔のように美しい、踊るEdgeな紙面を望んだのだった。

マットーな身体のまま踊ろうと思う馬鹿は居はしまい。マットーな身体で踊ってもマットーにならぬのが踊りである。そこにEdgeが立つ。それは踊りが事件であり、出来事であるからだ。わたしはミイラから踊り始めたのだったが、〈踊り=狂う〉というのは(聖なる)子どもの常識に属する。踊ることはアンチ・ヒューマンである。踊りはいつも、人間が人間から出て、別のもの、他のものになることを孕んだ、外のものへと未知や非知の閾(しきい)を越えて身をつなぐ誘惑である。アブナイ。アブナクナケリャ踊リジャナイ、危うく身をそらして在るのでなければ。恐怖とともに…

だから、越境せよ、移動せよ、放浪せよ、国を棄てよ、家を出よ、家と家のあいだに彷徨え、そしていつでも縁に在れ、縁であれ!それがノマディックな踊りの哲学だ。Edgeが立つ。際どい火がめくれあがり、わたしたちの身体は、ほのおとともにゆくのだが……瀕死のフェニックスは翼をひろげてどこへ飛ぶのか?

April 25, 2001 Tokyo
室伏鴻