1 Pages
1990
「「虚」をつく という 人は誰れでも 虚をつかれるものだ。それ位のものなのだ。虚という時 虚をつかれるというニホン語はさして 大ゲサな「*」をしているのではない。不意をつかれる というほどの とても日常的な言い回しなのだ。だからその伝でゆけば 人は誰れでも 虚とともに生きていて 日常的には 虚は 蔽われている。 虚も 不意も 内部 にあるのでも 外部 にあるというのでもないと考える。それは 関係としての 虚 関係としての不意 だ。何ものか 天候でも物でも 人でも 街でも それらと 関係を 結び合う時の 時の不様 をいっているのだ。「虚偽」という うそ・いつわり 「虚構」という うそのかまえだ 「虚心」という そして「虚無」という そして「虚無僧」という」(日付なし)