日記

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年度

2000

内容

継承? とは何か? 切断こそが流れを 新らたな 流れをつくり出す。 例えば天児のTDVのけいこ場をたずねる。ロータス、白いロータスなのだ。すぐに千羽さんを思い出し、私は ロータス・キャバレット Zarathoustraをやったのだったが その転用は まあよい。イメージは 洗練されている。天児流で しかし そこに イメージの切断がないのだ。彼は 批判されるオリエンタリズムの位置に 亀裂を導入していない。なぜ そうなのか? こうなれば「天児論」になってしまう。作品主義というより前に 作品へと至る動機には 何やら「伝統」や「類型」への 本来 捨てなければならない 敬意や隷属が あるのではないのか。それは あまりに イージーな コトバに隷属する身体ではないか。すでに語る事の可能な 語られた 東洋の美や 哲学の 心理学のコトバの上に デザインしてみるだけの それをなぞるだけの身体には〈踊り〉はノってこない。踊り子は 所詮「人形」であると マネキンのように 配置されるだけだ。〈配置の妙味〉それに感動があるのか? 所詮 エンターテイメントだから。私が「キレイだね」と言うと「キレイじゃなきゃあ」と。