日記

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年度

2013

内容

1月9日から8月10日の日記。「〈消尽〉 ベケット アルトー /  器官なき身体 とは何か /  desfuc*** 解体 崩壊 〈無償性〉〈ワンダーリング / ワンダーリング〉などなど。哀しい。なんだか悲しいというより〈哀しみ〉が 性の根源的な感情であるというような気持ちである。Mからつづいている感情の根には MのPerformanceを見たり、遠藤と会ったりしたこと・・・彼らが 私のWSや踊りから平気でideaを盗んでいったことへの淋しい感情があって 尾を引いているのではないか?!それでWSへも気が真っ直ぐにならない??」(4月16日)。「不可能性 アンニュイ と言ったのだが もっと付け加えなければなるまい。〈ニヒリズム〉から いかにして脱出できるだろうか?ニヒリズムのニーチェによる明快な定義「この世界には属さぬ〈外部〉に真なるものを仮想すること。これがニヒリズムである」真理と絶対はこの世界の外部にあり 従ってこの世界そのものは無イミな仮象に過ぎぬものとして否定される。プラトン以来・・・。〈力の消尽 は 一つの抵抗 その拠点 actualite〈今・ここ〉 時間の〈外〉としての〈われわれ〉の身体を呈示する〉。カントの「啓蒙とは何か」を巡るフーコーの最後の講義には次のような一節が読まれる。「カントのこのテクストにおいて初めて現れるように私が思う問いとは、現在についての問い、現実actualiteについての問いです。今日いったい何が起こっているのか。今、何が起こっているのか、そしてその中でわれわれがこうした者であるということはいったい何なのか。また、私が書いているこの瞬間を規定している〈今〉とはいったい何なのか」(雑誌「エピステーメーII」0号 小林康夫訳 175頁)「無意」とdesoevrement 訳された〈営みの不在〉は非作品化 作品を作らないこと 主体を消去して 誰路ものでもないものの 何者でもないものとして 行為すること / しないこと。ここがNYのブルックリンであろうが 昨日のメキシコであろうが その歴史性にナタをふるい 切断して 瞬間へと 分身スルコト。(後略)」(4月18日)。