Ko Murobushi Exhibition

Faux Pas/踏み外し

ウィーン、東京│2024 » 2026
2024.11.24
シンポジウム

身体記憶の地層学(「あの山を見たまえ、むかしあそこは炎だったのだ」)

堀千晶

「あの山を見たまえ、むかしあそこは炎だったのだ」という言葉を導きにして、そこから出てくるものを今日は見てみたいと思います。この言葉は、ドゥルーズの『シネマ』に引用されているものです。

ストローブたちは頻繁に、つぎのセザンヌ言葉を引用する。「あの山を見たまえ、むかしあそこは炎だったのだ」。
ドゥルーズ『シネマ2』第9章注57(Cinéma 2, Minuit, 1985, p. 333, n. 57)

この引用はセザンヌの言葉ですが、セザンヌの言葉をユイレやストローブが引用して、若干改変したものなので、ドゥルーズはこの改変されたセザンヌの言葉を引用していることになります。ダニエル・ユイレとジャン゠マリー・ストローブは共同で映画を撮り続けた監督なのですが、二人はずっとセザンヌが好きで、家にも複製を飾っていたといいますし、のちにセザンヌについての映画を何本か撮ることになります。たとえば、そのうちの一本が、1989年の『セザンヌ』です。この作品は、ガスケ『セザンヌの対話』のなかのセザンヌの言葉をユイレが読みあげ、映像としてはセザンヌの写真や絵画が撮られてゆく、そのなかにジャン・ルノワール『ボヴァリー夫人』の農業共進会の場面の抜粋などが挿入されるという作品です。ユイレとストローブが、どれくらいセザンヌを重視しているかということを証言するものとして、さらに二つの言葉を引用しておきます。最初のものは2004年のユイレの言葉、二つめは1994年のストローブの言葉です。

何かを撮影したり描こうとするなら――セザンヌを見よ、彼はどんな映画作家よりも偉大な撮影監督(cadreur)の一人だ――、正確にフレーミングするようつとめるものだ。(ユイレ)
L’étrange cas de madame Huillet et monsieur Straub, Ombres, p. 102.

この惑星で撮影するには、すこしばかり地理学者(géographe)でなければならない。地理学者というのは、大地を描きだすことだ。géがギリシャ語の大地で、graphが書くことを意味する。さらにもうすこし踏み込んで、地質学とは何かを考えなければならない。一本の樹木や一つの山は、その下に何があるのかを知らなければ撮影できない。セザンヌの言葉に立ち戻らなければならない。「あの山を見たまえ」――彼はその山を何年もかけて見たのだ――「むかしあそこは炎だったのだ」。(ストローブ)
Rencontres avec Jean-Marie Straub et Danièle Huillet, Beaux-arts de Paris, p. 19.

目のまえに見えているもの、たとえば樹木や山があるとき、その下に何があるかを知ったうえで見ること。これはおそらく身体とかを見るときも同じです。ですから、風景だけの話でもないし、山だけの話でもありません。ドゥルーズは静物についてもいえると考えています。見えるもの、その表面があるとして、同時に、その下にあるもの、見えている表面の下に潜んでいるので、それじたいは直接見えるわけではない「炎」のようなものをどういうふうに考えたらよいか。これが今日のひとつのテーマです。もうひとつのテーマは記憶、歴史のテーマで、ドゥルーズがどういうふうに記憶や歴史について考えていたのかということで、それが身体を通して、物体を通して考えられるのではないか、つまり地面の下の地層は、ドゥルーズにとって記憶でもあるのではないか、ということです。あるいは「現在」のなかに残存している、過去の名残りをどのように考えればよいか。
 このように前振りをしたうえで、つぎの引用に移りたいと思います。1969年に書かれた『意味の論理学』という本の抜粋です。この本のなかでドゥルーズは、「哲学者の三つのイマージュ」を描きだしています。三つの哲学者像、思考とは何かをめぐる三つのイメージということです。ひとつめはプラトン的なもので、イデアみたいなものが天上にある、人間は洞窟の暗がりから出てその高みに向かって上昇してゆく、というものです。先週、ダンス批評家の竹重伸一さんがカントと関連づけて、思考の中で方向を定めることをめぐるお話をされていましたが、ドゥルーズが取りあげているのもまさにカントにおける思考の方向づけのことです。ドゥルーズは思考の方向づけを文字どおりに、地理学的にやっているわけです。つまり思考とは、洞窟から出発して上に向かっていく、そしてイデア的なものを目指していくというのが一つめのタイプです。
二つめはエンペドクレスで、エンペドクレスはむしろ、思考は物体のなかに、身体のなかにもっと深く入っていくべきだとする。大きく図式的に言うと、「深層」に潜りこむことになります。
三つめがルイス・キャロルで、意味の表層にあたります。「表層的」というと悪い意味で使うことがありますけれども、その表層性をドゥルーズは、徹底的に表層的で実体を欠いている「意味」の問題として、ポジティブに捉え返していく。表層で何が起こっているのか。キャロルの作品のなかで、チャシャ猫の身体が消えて、微笑だけが空中に残る、という有名な場面を想起していただければと思いますが、「微笑」という意味‐感覚だけが残って、微笑んでいたはずの身体じたいはもう消えているような感じです。今日はあまり触れませんけれども、その意味の生成において肝心なのは、ふいに身振りをを行って、それをあっというまに消去していくスピードがとにかく肝心で、意味だけ残して、その意味を発生させた身体があとかたもなく消え去るという、そういう速度の話をしています。たとえば微笑んでから、微笑だけ残して身体が消え去っていくその不意打ちの速度です。
ドゥルーズが提示する「哲学者の三つのイマージュ」をまとめますと、一つめが「高み」、二つめが「深層」、三つめが「表層」というわけです。今日は二つめの物体や身体の「深層」に入り込むこと、おそらく外からは見えないものにまで入っていくこと、という点だけ扱います。では『意味の論理学』の抜粋を見てみます。

エンペドクレスとエトナ山、ここに哲学的逸話がある。〔……〕前ソクラテス期の哲学者は、洞窟からは出ない。反対に、前ソクラテス期の哲学者は、人びとは洞窟に充分に踏み入って充分に呑み込まれていないと評価する。〔……〕前ソクラテス期の者たちは、思考を洞窟の中に据え付け、人生を深層の中に据え付けた。彼らは水と火を探索した。エンペドクレスが彫像を壊したように、前ソクラテス期の者は、地質学者と洞窟学者の金槌で叩いて哲学を作り出した。エトナ火山が水と火の氾濫の中にエンペドクレスを吞み込んでから吐き出すのは、たった一つのもの、鉛のサンダルだけである。プラトン的魂の翼に、エンペドクレスのサンダルが対立する。このサンダルは、エンペドクレスが大地の者、地下の者、先住民であったことを証している。プラトン的な羽ばたきに対して、前ソクラテス的な金槌の一撃。プラトン的な転向に対して、前ソクラテス的な転覆(subversion)。〔……〕初めに、分裂病ありき。前ソクラテス主義は、まさに哲学的分裂病であり、身体と思考に穿たれた絶対的深淵である。だからこそ、ニーチェに先立って、ヘルダーリンがエンペドクレスを見出すことができたのである。エンペドクレスの有名な交替、憎しみと愛の相補性において、われわれが出会うのは、一方では、憎しみの身体、細分化された身体‐濾過器、「首のない頭部、肩のない腕、額のない眼」であり、他方では、器官なき栄光の身体、四肢もなく声も性器もない「一塊の形態」である。
ドゥルーズ『意味の論理学』「第18セリー 哲学者の三つのイマージュ」、上巻・二二七-二二八頁(Logique du sens, Minuit, 1969, pp. 153-154)

まずエンペドクレスというのはシチリアの人です。シチリアには火山があって、そこに身投げしたという伝説が残っています。またシチリアは外から支配されている地域であるということがあり、シチリアにおける被支配民、一種のマイノリティだということがあります。大地の「先住民」といわれている箇所です。それから、前ソクラテス的な「転覆」とありますけど、原語は « subversion »ですので、「下(sub)」からひっくり返すという意味ですね。色んなものを、地面の表面の浅いところ、物体や身体の表層だけでなく、地下深いところから地面をまるごと大きくひっくり返してゆく、地層すべてが攪拌されてゆくというニュアンスになると思います。そういうことが含意されているということです。大地をその地層ごとひっくり返すことです。それからヘルダーリンが出てきて、いわゆる「狂気」の問題が提出されます。ヘルダーリンはユイレとストローブが愛した作家で、ヘルダーリンの作品を原作とする『エンペドクレスの死』を1986年に撮っています。この『エンペドクレスの死』からの抜粋を、1989年の『セザンヌ』のなかに挿入していますので、ユイレとストローブは、セザンヌとエンペドクレスとを関係づけようとしていることがはっきり分かります。『エンペドクレスの死』はセザンヌ的映画なのです。
ところでドゥルーズは、エンペドクレスについて書いていたときに、おそらくロマン・ロランの「アグリゲンツムのエンペドクレス」というテクストを、どこかで念頭に置いていたのではないかと思います。このテクストは1918年、つまり第一次世界大戦の頃に発表されたもので、『意味の論理学』では引用されていませんが、『スピノザ 実践の哲学』(1981年版)にも言及がありますし、映画論講義で直接引用されてもいます。ロマン・ロランのエンペドクレス論は、色んなことを語っているのですが、たとえば「愛」と「憎しみ」の相互性ですね。これは一種の原子論的な価値観の世界、すなわち水、土、火などのいわゆる元素(エレメント)が集まって、どのように事物を形成し、世界をつくりだしていくかという話です。そのとき、元素同士を結合する原理の方が「愛」と呼ばれるものになり、物事のあいだを引き裂く原理が「憎しみ」に当たります。愛の究極地点は、おそらく調和的な世界になるんですけれど、しかしこの調和的な世界のなかにやがて憎しみがやって来る。そのあとの顛末がつぎの箇所になります。

「憎み」で満ちた世界の塞がれた甕に一つの割れ目が生じる。「憎み」は外に滴り落ち、ひじょうに緩やかに逃れ去る。その水位が下がるにつれて、「憎み」に代るために《清浄な「愛」の慈悲ふかい波が押し寄せる。》この波が通ると、引き離されていた「諸元素」が互いに接近し、混り合う。生命の一つの畝が鋤の刃によって掘られる。相反する二つの「力」の相互の圧力が、動かない混沌の中に渦状運動を生ぜしめる。
ロマン・ロラン「アグリゲンツムのエンペドクレス」、『ロマン・ロラン全集 19』一九六頁

ここで注目したいのが、まず割れ目、ひび割れという言葉が使われている点です。この場合はただし、一般に考えられるのとは逆で、調和的であった世界にひびが入るのではなくて、憎しみに満ちた世界の方にひびが入る。それによって、憎しみが抜けていくんですね、そのあとで、ロマン・ロランは、「《神は器官も四肢ももたない。》」という言葉を書く。これは、エンペドクレスの断章からの引用です。ドゥルーズの『意味の論理学』からの抜粋に、「器官なき栄光の身体、四肢もなく声も性器もない「一塊の形態」」と出てくるのは、おそらくこうした文脈を踏まえたものだと推察されます。「器官なき」ものをめぐるアントナン・アルトーとは別の参照項です。
くわえて、ここでドゥルーズと関係するテーマでいうと、元素が渦巻いていく世界みたいなものですね、物事が動いてsubversionして、転覆して、底から搔きまわされ、攪拌されてゆき、地表からだけではなく、おそらく地中から、地底から動乱していく。つまりドゥルーズがエンペドクレスをめぐって深層の話をするというのは、地層が安定している状態のことを言いたいわけではないのだと思います。地層というのはむしろ、異なるプレート同士がぶつかることで隆起して、丘や山になることもあるし、水平だったものが垂直になったりもするし、上下反転したりもします。出来上がったものが長い歳月をかけて削られていったり、大地に巨大な割れ目が走ったりもする。ドゥルーズは、人間の尺度を遙かに超える長期的で大きな運動を考えていたと思いますけれども、そういうことを含めながら、エンペドクレスの話をしている。先ほどの『意味の論理学』のなかに、エンペドクレスは、「地質学者と洞窟学者の金槌で叩いて哲学を作り出した」とあることに注意したいと思います。「地質学者」がハンマーによって哲学する、そのままでは埋もれて見えない、地下からの「転覆」の試みを綿密に調査するというわけです。
 あともうひとつ、ヘルダーリンの『エンペドクレス』は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』に影響を与えたといわれています。つまりエンペドクレスには、民衆に語りかける預言者という側面があって、治療をしたりするのですが、同時にそのエンペドクレスが、既成の権力から追放されていくわけですね。ですから、そうした政治的な力関係は、エンペドクレスにも、ツァラトゥストラにも、背景にあるだろうということです。エンペドクレスが、「ハンマーによって哲学する」というニーチェの有名な言葉とともに語られているのも、ヘルダーリンという存在を踏まえたものだと思います。
 さらにドゥルーズが面白いなと思うのは、のちの映画論講義のなかでのことなのですけれども、エンペドクレスについて語っている回があります。その中で、ハーマン・メルヴィルの『白鯨(モービー・ディック)』に出てくるエイハブ船長ですね、つまり巨大な白い鯨を執拗に追い駆けてゆく船長ですけれども、エイハブのことをエンペドクレスと呼んでいるのです。その場合はエトナ火山に身投げするのではなく、白鯨という怪物を追って海底へと潜ってゆく、沈んでゆく人のことをエンペドクレスと呼んでいることになります。ですから水のイメージが、燃え盛る炎のイメージと交錯していくかたちになっています。

エイハブとはエンペドクレスである、と言っておこう。〔……〕私の考えでは、エンペドクレスは三度生きた。〔……〕一度目はドン・キホーテという名高い外観をまとって、二度目はエイハブ船長という名高い外観をまとって。
ドゥルーズ、映画論講義「映画、真理、時間――偽造者」1983 年12月20日

くわえてドゥルーズは同じ講義のなかで、つぎのようにも語っています。

エンペドクレスの一撃とは何か。彼は愛‐友情を、起源的なもの〔独創的なもの〕にした初めての人なのだ。

この「愛‐友情」こそが起源的というのは、カントの超越論哲学における「構成」の問題を意識しつつ語っているのだと思います。ドゥルーズが語っているのは、まず何らかの対象があってそれを愛する、ということではありません。そうではなくて、対象が存在するためには、元素が集まり凝集すること、つまり「愛」が必要なので、「愛」がなければそもそも形態をもった事物は存在しないということです。だから、愛が起源になければならない。講義のなかで、これは「哲学とは何か」という問いに結びついていくことになります。というのは、「哲学(philosophie)」は、philosが愛するで、sophiaが知恵ですけれど、これは既存の知恵を愛するということではなくて、むしろ「philos」の作用によって「sophia」をつくりだす、構成するということを考えている。つまり愛のほうが先で、sophiaのほうがあとから作られていくわけです。ですから「哲学(philosophie)」は、知恵を愛するのではなく、むしろ順序が逆になって、愛があるから知恵があることになります。通常の問題の立て方が逆転するわけです。これは物体に関しても言えることですし、知に関しても言えることです。そのときこの「愛」という結合する力、つまり物体や身体や知を構成する力が、それらの地下にある地層のなかでどのように働いているのか。どのような政治的な力、歴史的な力、マイノリティの力が、「愛」の力として働いているのか、ということも問題になるかと思います。あるいは憎しみの力はどうか。ひび割れを引き起こす力はどうか。

 それではふたたび『意味の論理学』に戻りまして、この本のなかの別の箇所に移りたいと思います。「磁器と火山」という題名の、『意味の論理学』の中でも非常に面白い章で、フィッツジェラルド論にもなっています。フィッツジェラルド「崩壊」(1936年)は、両大戦間期という不穏な時代に書かれた作品ですが、ある一人の男が生きている時代に、色々な出来事、色々なトラブルがあって、その中で自分の心が崩壊していく感じがするという作品です。自分に亀裂が入っていくような感じがすると。それを心と身体で受け止めてしまうということが大きな筋としてあります。裂け目や亀裂、魂に起こる異変、裂け目、それを身体的に受け止めていく。そしてその中でこの火山の話などが言及されていく。グランド・キャニオンが裂けるようにあなたの心が裂けているだけだと慰める人がいるんですが、それでは慰めにならないよっていう話になったりするんですね。
 こうした作品をめぐって、その周囲で、ドゥルーズ自身は何を書いていくのかというと、彼はアルコール中毒者をめぐる議論を展開していきます。『意味の論理学』が書かれたのは、ドゥルーズ自身がアルコール中毒寸前だったといわれている時期で、ちょうどその頃彼は片肺の摘出手術をするのですが、肺の不調が理由で酒を飲むのをやめて、何とかアルコールから逃れられたという、そんなこともいわれています。そうでなければ、飲んで死んでいたかもねという。そしてこの「磁器と火山」は、記憶や過去との関係というのが大きな主題になっているテクストです。つまり、火山や地層との関係で、記憶や過去のことが問題になるということです。
 ドゥルーズは、フランス語の「複合過去」について話をしていまして、「複合過去」というのは、英語でいう「現在完了形」と同じ形をしています。たとえば、「have been」のような形です。つまり「have」に当たる動詞があり、さらに「been」のような過去分詞があり、その二つが結合してできあがります。「現在」が、「過去(been)」を「持っている(have)」という形になります。「何かをし(てしまっ)た」ということを「私は現在持っている」。それをドゥルーズがどう書いていくのか。この箇所は、非常に物質感のある、おそらくこれ以上ないほど物質感のある過去形論だと思います。

硬くなった肉の中で柔らかい吹出物を捉えるように、硬化した現在の中で別の時期を捉えるやり方〔……〕。それにしても、この締め付け、現在が別の時期を包囲し占拠し締め付けるこの方式は、ほとんど堪え難い何とも奇妙な緊張である。現在は、柔らかな中心・溶岩・液状ガラス・粘性ガラスの周囲で、円形の水晶や花崗岩になる。
ドゥルーズ『意味の論理学』「第22セリー 磁器と火山」上巻・二七四-二七六頁(Logique du sens, p. 184-186)

凄いイメージです。周囲が水晶とか花崗岩のようになっていて、これが現在ですね。現在はごつごつし、ざらざらしています。卵みたいな、ゆで卵みたいなもので喩えると、殻の部分が現在にあたります。中身に当たる部分、半熟というか、もっと柔らかいものが、過去にあたる。これは「吹出物」、「溶岩」、「液状ガラス」といわれています。内側には溶岩があり、外側には硬化したものがある。この外皮は、かつては溶岩だったのかもしれませんが、いまは硬化し岩になっている、結晶になっている。先ほど卵といいましたが、地球のマグマと地殻といってもいいかもしれません。ドゥルーズのテクストのなかでは、過去が、荒々しいともいえるしかたで生きているように感じられます。結晶のなかに、溶岩のような過去が封じ込められているのです。ただし生物ではなく、鉱物という無機物であるという意味で、無機物の強さを帯びた過去と現在になります。ゆっくり柔らかに動いていたとしても、溶岩であれば決して穏やかなものではないでしょう。過去をノスタルジックに回想しているというのとは、一線を画すものです。過去はまったく死んでいるようには思えない。その一方でこれはアルコール中毒者の話であり、その現在は荒廃している。荒涼とした時代の只中で、アルコール中毒者のがちがちに硬化した現在のなかに、過去の残りものが渦巻いている状態。こうした仕方で、ドゥルーズは過去の問題を考えているのです。
そのうえでこの酒飲みはもう一杯飲む。さらにもう一杯。あと一杯。まだ行ける。まだ最後の一杯ではない……。こうして飲んでやがて、ああ飲んでしまった、すごい飲んじゃったぞ、やばいぞってなったときに、時は経過し、先ほどまであった「現在」はもう進んでいます。すると、新たな「現在」のなかに包まれているのは、飲んでしまった先ほどの自分自身になっている。飲んでしまった自分を、私は現在持っている。硬化した現在によって、飲んでしまった自分が締めあげられてしまうわけです。こうなると、先ほどよりもっと心が荒廃してゆく。過去も柔らかさを失って割れやすくなり、現在の自分もいっそう荒廃して、先ほどまで溶岩のようにうごめいていた過去の思い出も全部遠くなってゆく。これは非常にリアルティのある描写です。もう自分には、飲んでしまったという、つい先ほどしてしまったことしか残っていない。もしかしたら自分が現在と過去もろとも、バリンと裂けていってしまうかもしれない。多分そういう感覚ですね。ドゥルーズはその状態をこう表現します。

現在は、固い現在としては、影響力を失って色褪せ、何ものも締め付けず、別の時期のすべての相を等しく遠ざける。〔……〕すべてが、羽ばたいて逃げ去り、等しく遠くなったかのようである

 これはやや悲劇的ともいえる事態かもしれません。
ただ別の観点からすると、ドゥルーズは、過去の記憶を、特定の現在を起点にして思い出すというモデルを好まないということもいえます。つまり、いまの自分から出発し、自分を定点として、そこから過去を思い出すというモデルのことです。自己中心的な記憶といってもよいかもしれません。「磁器と火山」の場合だと、現在のなかにくるまれているかぎりでの過去、ということになります。その場合、「現在」がいわばフレームになって、そのフレームのなかに入ってくるような過去だけが思い出されてくるという、そういうありかたですね。ドゥルーズはこういう自己中心的、現在中心的な考え方を好みません。「磁器と火山」において、自分がバリンと砕けてしまったとなると、過去をくるみこんでいるフレーム自体が砕けてしまっていることになります。世界を把握するためのフレームそのもの、思い出すときの起点になっている「現在」そのものが崩れていく。ドゥルーズはこうした事態をアルコール中毒から切り離したうえで、『シネマ』ではポジティブに捉え返していくようなところがあります。この点には、あとでもう一回戻ることにして、ひとまず『意味の論理学』で提出される一つのモデルとして、卵の殻と黄身、あるいは地殻とマグマのような現在‐過去モデル、つまり、硬化した現在゠結晶の中に包み込まれている過去゠溶岩というモデルがあることを確認しておきたいと思います。
つぎに、ドゥルーズ『シネマ』の話に移りたいと思います。今日はじめのほうで触れましたが、『シネマ』のなかでセザンヌと関連して論じられるのが、ユイレとストローブという二人の映画監督になります。二人ともセザンヌを愛しているのですけれども、ストローブは「感覚を物質化する」ということをすごく強く言っていて、そのことをドゥルーズは取りあげています。

セザンヌにおける、絵画的イメージのテクストニクス的ないし地質学的な力能。〔……〕風景のなかの岩や山の稜線ばかりでなく、静物にもかかわる。〔……〕作品(フィルム)は、観客に感覚を与えたり引き起こしたりするのではなく、「感覚を物質化し」、感覚のテクトニクスに到達するものとみなされる。
ドゥルーズ『シネマ2』第9章注42(Cinéma 2, p. 321, n. 42)

いったんセザンヌ自身の文脈を見ておくと、彼の絵についての認識は非常に面白くて、絵というのは、絵じたいによる世界の認識だというふうにいうわけです。それを主観的な「私」による世界の認識と区別して、絵という物体そのものが世界を把握しているので、客観的な認識なのだと。この「客観的」というのは、普遍的に妥当するという意味ではなくて、客体、つまり物そのものがとらえている認識という意味だと思います。「感覚の論理」です。たとえば「林檎」を描いているとしたら、その林檎じたいが世界のなかにあって、世界を把握しているわけで、たとえば重力のような外部のものとの力関係自体を林檎じたいが把握しているはずだと。林檎という客体による世界の把握そのものを、今度は絵という客体がもう一回、とらえていくわけです。周囲の世界と林檎の関係、林檎と絵の関係、絵と林檎と画家の身体の関係など、こうした関係のなかに張り巡らされている力をとらえていくという、そういう理解の仕方をしているわけです。ドゥルーズは、D・H・ロレンスによるセザンヌ論などを参照しつつ、こういう理解の仕方をしています。つまり人間などおかまいなしに、事物そのものが、物質そのものが知覚している。物そのものが世界を、おのれの周囲を把握していて、それをさらに把握する絵画という物があって、さらにそれを描いている画家の身体があって、それらが向き合っている。すると、じゃあどこにフォーカスを当てて作品を作っていくべきなのかという問題が出てきて、セザンヌはずっと逡巡してゆきます。それにしてもセザンヌの絵は、鮮やかというのとは違う非常に独特の硬質な色彩で、造形の仕方も極めて不思議なものです。
そのうえでストローブのいう「感覚を物質化する」という言葉。あるいは物質化している感覚。ストローブ自身の言葉を引用しておきます。

だんだんと大きくなっていく広がり、感性と感情、感覚の広がりを翻訳する客体を作る必要がある。セザンヌが、感覚を物質化しようと試みているのだと述べるような意味で、である。〔……〕セザンヌの絵画を見ると、自分のうちに感覚が呼び醒まされるのではなく、物質化された感覚がそこに見えるのだ。
« Entretien avec Jean-Marie Straub et Danièle Huillet, par Serge Daney et Jean Narboni », in Cahiers du cinéma, No 305, nov. 1979, pp. 18-19.

ストローブとユイレは映画作家ですので、この二人の場合だと、音と視覚になると思いますけれど、音と視覚として物質化しているわけです。まず映像そのものが物質としての強度を獲得しなければならない。岩のようにならなければならない。そして視覚と音響という物質が、世界の捉え方そのものになっていて、さらにそこに写っている身体、物体じたいが世界を捉えていて、様々に張り巡らされた緊張を観客は見ているわけです。本日の冒頭に触れましたがストローブは、風景を撮るときはその下に写っているものをも撮らなければいけないといいます。過去に存在していた地下の炎まで見なければならない、そうでなければ山を撮れるはずがない、と。これは撮影者側の恣意とはほど遠いもので、撮影される自然に従わなければなりません。こうした点を踏まえたうえで、ドゥルーズ『シネマ』を見てみたいと思います。

空虚な空間で人びとが語る、すると言葉は上方へと舞いあがるいっぽうで、空間は大地のなかへと沈みこみ、見えなくさせる。だが空間は、大地の考古学的な埋蔵物、地層学的な厚みを読解させ、必要だった労働、畑を肥沃にするために殺された犠牲者たち、繰り広げられた様々な闘争、打ち捨てられた死体を証したてる(『雲から抵抗へ』、『フォルティーニ/シナイの犬』)。歴史は大地と切り離せない、階級闘争は地下にある。出来事を把握したければ、そのまま示したり、出来事の経過をたどったりするよりむしろ、出来事のなかへと潜りこみ、その内的な歴史である地質学的な諸層すべてをめぐらなければならない。
『シネマ2』三五〇-三五一頁(Cinéma 2, p. 332)

「空虚な空間」というふうに言っているのは、『シネマ』という本のテーマのひとつでもあるんですけれども、人間が中心にいない世界、人間不在の世界を考えているとも読めます。「空虚」というのは「無人」ということです。ユイレとストローブの映画は山があったりとか、木々がすごく繁茂していたりとかして、自然が主役であるなかに、人が入り込む感じなんですね。人間が「主」という感じではない。もっとフラットな世界ができているように私には見えます。
それから、ドゥルーズが提示しているのは、言葉が上へと浮上し、大地が下へと沈下するという思考のイメージです。大地のなかには闘争が、死体が埋まっている。つまり大地の下にある、闘争や虐殺といった過去に目を向けさせます。地下には闘争の歴史が埋まっている、パリ・コミューンの闘士たちの死体が埋まっているというのです。ユイレとストローブは実際にそういう場所で撮影をしています。そうしたことを知らなければ撮影できないということです。「あの山を見たまえ、むかしあそこは炎だったのだ」というのはそこにもかかってきます。
そしてドゥルーズは言葉が、声が地面から浮きあがり、空気のなかに放たれるといいます。ユイレとストローブは、ユイレのほうが音を担当しているといわれていて、現場で音を聞いています。彼女は圧倒的に耳がいい人で、音だけ聞いても素晴らしい作品になっています。ちなみに二人の作品は、ほとんど同時録音です。そして、『アンティゴネー』や『エンペドクレスの死』では、ヘルダーリンのテクストをほぼ変えずに、俳優が台詞として読むわけですけど、そのとき明らかに異質な発声の仕方をするんですね。異化された発声を極めて計算された仕方でしています。私の手元に、『アンティゴネー』の脚本に書き込まれているメモの写真があるのですが、これはストローブが書き込みをしているもので、抑揚をどうするか、強弱をどうするかということを、非常に綿密に決めているんです。書かれた言葉は、発声される言葉とは異なるものである。では、どうやって声を出していくか。ストローブは野蛮人なので、こういうことを言います。

句読点はムッシュ・グーテンベルクの発明品であり、さらには官僚制の、プロイセンの発明品である。つまり今日では句読点を見つけたら、どんなときであれダイナマイトで爆破すべく試みたほうがいい。
Rencontre avec Jean-Marie Straub et Danièle Huillet, Beaux-arts de Paris, p. 23.

素晴らしいですよね。ストローブは、句読点の位置を呼吸の位置と関連づけているんですけれども、つまり句読点によって呼吸する位置を指定されてしまっているということですね。それをずらしていく。それに抵抗していく。官僚制、帝国主義、ファシズムのつくった言葉、考え方はすべて爆破すべきだというわけです。でなければ、テクストから声を引き出すことなどできるはずもない、と。書かれたテクストから、「声」を引きだすことは、ですから二人にとってはレジスタンスなのです。ヘルダーリンのテクストだからこそ、だと思います。アンティゴネー、エンペドクレス、ヘルダーリンとともに、映画のなかにダイナマイトを仕掛けるというわけです。ユイレとストローブは自分たちが納得できるテクスト以外は扱わないのですから。(以下略)

ディスカッション途中より
堀(前略)どっちが先かはわからないんですが、魂は身体の周りにあるという感じですよね。1980年代後半からドゥルーズの周辺で「魂論」を書く人が出てくるんですが、たとえば映画監督のエリック・ロメールの弟で、ルネ・シェレールという哲学者がいるんですけれど、その人がギィ・オッカンガムと共著で『原子の魂』、つまり『アトムの魂 核時代の美学のために』という本を書いていて、人形論、ベンヤミン論、バロック論などが入っています。うろ覚えでお話ししますけれども、そこでの議論では、身体から分離された抽象的な魂ではなくて、あくまでも身体の周辺、つまり形態でもあり物質でもあり動きでもある身体の周囲にしか、魂は発生してこない、でもそこには魂と呼びうるようなものが見える、というか感じられる、そういう議論だったと思います。
 それと「記憶」論は色々ありますが、たとえばベルクソンは、過去というのは滅びない、過去はそのまま全部丸ごと保存されている、という感じの人なんですね。しかし、そうなると過去の分量が多すぎてしまうので、今度は過去のなかのどの部分を取り出してくるかという問題が出てきて、そのときに現在の自分の行動と関係してくる部分だけが取りだされてくる、自分の身体の動きと関係してくるような要素だけがセレクトされ、振り分けられ、記憶として想起されるという議論をしています。
ドゥルーズはというと、こういうベルクソンの議論を退けるわけです。それはなぜかというと、自分を中心にしすぎだからだと思います。何らかの定点、中心点をつくりだして、その周りを回らせることを彼は回避したいわけですね。それよりむしろ、たとえばテクストが残存していたり、遺物とか、漂着した木があったりしたときに、その遺物とか木とかといった決して「自分」ではない事物が、身体に刻み込んでいるその過去性ですね。そうした現在には還元できない部分を重視していると思います。

竹重それって大過去みたいなものなんですか?

大過去よりもうちょっと遠いと思います。フランス語の「大過去」というのは、英語の過去完了形にあたるもので、「had been」のような形を取ります。この場合、「had」は、その言葉を発している現在との関連で「持っていた」と言われていますので、まだ起点となる「現在」が残っています。ドゥルーズにとっての「過去性」というのは、それよりもう一個遠いですね。現在との関係を絶っているという意味で、絶対的な過去といったらよいでしょうか。ドゥルーズにおける記憶は色々モデルがありえて、今日はそのうちの幾つかにすぎませんが、鉱物系のものが一定数あります。もちろん私がそういう事例を選んでいるのもあるんですけれど、有機的なものより、鉱物質のものが印象的だと思います。

Infomation

Shyでの討議から成立した論集『アンチ・ダンス』を踏み台に、それを「踏みはずす」思想のダンスを追求します。ドゥルーズ生誕99年でもあり、室伏鴻の愛読したドゥルーズにちなむ語り、対話が続きます

日時
11月24日(土) 17:00〜
会場
室伏鴻アーカイブShy

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堀千晶Chiaki Hori

仏文学者。著書に『ドゥルーズ 思考の生態学』(月曜社)、『ドゥルーズ キーワード89』(共著、せりか書房)、訳書にジル・ドゥルーズ『ザッヘル゠マゾッホ紹介』(河出文庫)、ロベール・パンジェ『パッサカリア』(水声社)、ダヴィッド・ラプジャード『ちいさな生存の美学』(月曜社)など。