無題
ドゥルーズは自殺したのですが、彼の生誕99年ということでここに呼ばれました。その少し後に「死体は窓から投げ捨てよ」という本を出したことがあります。「死体は窓から投げ捨てよ」という書名は、ヘラクレイトスの有名な文章から引用しただけなので、ドゥルーズが投身して死んだことと符号しているのは偶然でした。とはいえ、ぼく自分の本一切持っていないんで記憶の話でたしかではありません。
この中に多分、勿論舞踏もしくは、ダンスをやってらっしゃる方がいるんでしょうけれども、実はぼくは、ほとんどそれに縁がありません。だからそれに詳しくてここにきているわけじゃないです。世代というのは、つまらないことですが、世代的に舞踏に縁がないわけではなかった。土方巽さんが主に活動していたのは、1960年代ですね。そのときぼくまだ小学校でしたから、ぼくらの世代はそのあとに土方さんというすごい人がいるという噂をきくわけですけれども、その時にはもはや土方さんは踊ってらっしゃいませんでした。映像では「肉体の叛乱」のいくつかの部分とかは残っていますけれど、ほとんどフィルムも残っていませんよね。宇野先生はもちろん、西谷修さんもパリでアリアドーネの會の通訳をやったりして、経験がある世代なんです。ぼくはその四、五年、年下ですが、その後の時代のものをいくつか見ています。でもこんな程度しか見ていないよ、ということしか言えませんが、その話をしてみます。
多分はじめて見た舞踏は山海塾なんです。しかも山海塾がヨーロッパを中心に動き出す寸前です。東京芸大には、芸術祭っていうのがあります。そこで山海塾を呼んだんですね。当時、山海塾は大学を回っていて、それからヨーロッパに行くということだったと思うんです。実は、山海塾は不機嫌そうだったんです。行ったことある方はご存知のように、東京芸大の芸術祭っていうのは、派手だけれど、場所は猛烈に狭くて、ほかの高校よりも遥かに狭いんです。土で一応ステージをつくって、それはそれでよかったんでしょうけれど、大雨だったんです。まわりの模擬店では皆酒飲んでるし、大雨で、水たまりもできて、泥ですから、ここで踊るのかみたいな顔を最初はしていたんですね。勿論学生はこんな環境でやらせて悪いなって思ってたんですけど、でも踊り出したんですよ。さすがにプロですから。そのうちに、もう大雨の中、学生は全員座って、熱狂的に見ているようになりました。だんだん山海塾の彼らも乗ってきて、ついには一人が松明持って飛行機飛びで客席に飛び込んで、それを学生が受け止めて、それがまた嬉しかったらしくて大騒ぎになりました。あのときはなんか、きれるとかっこいいというイメージがあった。きれるとかっこいいというのは、なんか本気の人がいたなということで、そういう舞踏に感動しました。舞踏の本物見たのはそれがはじめてです。
もうひとつは田中泯さんです。田中さんはお弟子さんか何かと、軽いエキシビションみたいな感じで、踊ってたんですよね。フランス人の女性でしたが、舞踏にうまくやっぱり合わないんですよね。理解が違うのか体型が違うのか、あるいは訓練の問題だったのか。彼女たちも緊張していたのでしょうけれど、ちょっと冴えないなと思って見ていましたね。そのあと田中泯さんは指導するように前のほうで踊る。泯さんも、多分お弟子さんたちが上手くいってないなというのは分かっているらしく、すこし捨て鉢というか、ちょっとがっくりきてるみたいな踊り方で、指導するんですよ。短いエキシビションですよ。感動したのが、そのあと客席のほうからどどどって、長髪の人が飛び上がるように乗ってきて、田中泯さんの方に寄ってきて、ぱあって肩に手を置いたんですよ。田中泯さんも一瞬唖然としたように相手を見た。客は、なんかやばいこと起こった、妙な人が入ってきたのかなと思ったら、それは土方さんでした。そこで田中さんは体をぱっと開いたら、もうあと泣き出しちゃった。そのときに、かっこいいと思いました。
僕は東京生まれの東京育ちなんですけれども、その後、神戸の大学に移って、関西に行くと、白虎社が存在していました。京都に練習場があって、その頃、白虎社と、なにかの縁でよく会うようになっていました。白虎社は毎年、東勝浦の廃校を借りて勉強会というか、舞踏やりたいという人募集して、後に全員で踊るという契約で、二週間くらい訓練をしていました。和歌山の真ん中ですから、本当の山の中です。中上健次を思い出してくれればいいですが、それより勝浦の方が、もっと荒涼としています。その間に基本的にはダンサー系じゃない色々なゲストを呼ぶんですね。
そのころの白虎社をどう評価するか、結構難しい問題だと思います。舞踏の最盛期というか、一番緊迫している時期が終わってしまったと言っていいような時期に、でも生き抜くんだということで色々なことをやって、それが原因で解散することになっちゃう。ぼくは、五、六回行ったのかな。その時には、舞踏の人も、哲学系を呼ぶことはなかったです。だから来たのは、舞踏から見たら色物ですよね。
その時はこのあいだ亡くなった楳図かずおさんがいらっしゃった。そこは小学校の廃校で、トイレは水洗じゃないです。途中で逃げちゃう高校生みたいな塾生がいるんですけれど、夜中に逃げると山の中だから生きて帰れるのか、真面目に心配になるようなところです。楳図さんは閉所恐怖症なんで、電車は我慢するけれど車は我慢できない。だから山の中の勝浦の廃校まで車で迎えに行ったけれど、乗らないって言い張って、しょうがないからということで、白虎の団員が結局そばのお蕎麦屋さんにスーパーカブを借りました。それなら乗るというんで、そこの工事現場の人のヘルメット借りた。だから楳図さんは二人乗りできました。
スプーン曲げの清田くんもきました。これは皆さんでも知らない人が多いと思いますが、スプーン曲げが、1970年代に、少年に流行ったときのカリスマで、最高のスプーン曲げ少年と言われた男です。宮内勝典さんの『ぼくは始祖鳥になりたかった』という二巻本の小説があるんですが、あの中にモデルとして出てきますよね。清田はこれ苗字です。横浜の清田寿司の息子さんなんです。いま清田はもう彼も六十近いかな。すこしは笑い話がないと疲れるでしょうから笑い話をします。彼はスプーンを床で曲げてるのがスローモーションでばれて、そこで超能力は嘘だという話になって悪評されました。でもなぜそういうことやったんだと聞いたら、かなり真面目に「疲れたからだ」と言っていました。まだ自分は子供だったので、なぜ曲がるかわからなかった。曲がる時は曲がるし、理由を知っていればいいんだけれどわからない。でもテレビに出れば毎回曲げろと言われる。小学校か中学校くらいで、投げて曲げろと言われたときに、当時は生放送ですから、曲がらなくてしょうがないからやっちゃったんだと。でもそれでテレビ出なくなったから、疲れなくなったから、逆にほっとした。じゃあそのあと、どうしたのと聞くと、新興宗教団体の教祖になってくれないかとか、変なオファーがいろいろ来たそうです。なにやるの?と聞いたら、みんなの前でスプーンが曲がると言ってから下がればいい、あとは壺とか売るからと言われたそうです。そういうことが沢山重なったらしい。一番面白買ったのは、アダルトビデオに出ないかと言われたことだそうです。勿論彼は断ったんですよ。だって、イケメンじゃなくて、どう見てもまずいよっていう男です。話を聞いたら、SM物で、彼が裸で縛られてて、女王様が、がらがらに縛られた清田さんの前にスプーンを置いて「スプーンをお曲げ」と言うそれだけなんだそうです。それには大爆笑しました。
でも、彼自身は、スプーンは曲がるんだと言ってました。これは分かりません。ぼくらが騙されたのかもしれません。本当に曲がるんだよと断言はしません。そのときも、インチキだと思われちゃ困るから、白虎の女の子が料理場からスプーン四本くらい持ってきて、言われたとおりのやり方で曲げて、村の子どもたちは大喜びだった。ぼくらが見ている間に確かに曲がっていく。本当に曲がるんですよ。だからわかりません。ぼくらも、体のいい手品で騙されたのかもしれないです。ただ、それを見ていて、曲がってもいいんだよな、という感じになった。最後に清田さんは、だからなんだよ、つまり手で曲げて曲がるものを手を使わなかったらなにがすごいことかっていうんです。
その日はそういう雰囲気の中で、横尾忠則さんも来ました。横にたまたまゲストの補佐で阪大の医学部の男がきていてのですが、横尾さんの話が終わったあとに、そいつが「あれは完全に精神病で、ある意味で感動しました」といいました。なぜ感動するかというと、横尾さんは相手を選んで、この部分では普通の人間のふりができるからだという。これはもしかしたら精神病の未来かもしれない。ガタリは入院させないで、むし精神病者として普通に生きるっていう村とかをつくるんです。それで普通に生きさせる。もちろん自傷行為とか他傷行為とか危険なものはいろいろ問題はあるんでしょうけれども。ただ日本では失敗して成功しないんですよ。香山リカは一回それをやろうとして、病院を首になった。横尾さんは自分でそれを行なっている模範例だと。横尾さんは、普通から見れば狂気です。狂気と言ってもほとんど妄想なんですけれども。
「ユリイカ」でピカビアの特集をやっていて、そのときに横尾さんはピカビアに宇宙船で会ったと書いていたんです。宇宙船の中に、飛島のように、生きていた芸術家のコロニーがあって、会わせてくれた。たしかピカソに会うのは怖すぎて、ピカビアに会った。横尾さんは、真顔で本当のことだからと言っていました。横尾さんが東京で展覧会をやったんですね。そのときに着物を着た普通の、自分の展覧会に来そうもない女性が来て、毎回横尾さんと会わせてくれないかという。ただおかしくもない感じもする。とにかくお昼にコーヒーぐらいはと、いうことで会った。その女性は自分は普通の人間で、ただ頼まれたので来ましたという。そこからおかしくなるんです。頼んだのは宇宙人で、宇宙人は体質の関係で地球の大気と重力に耐えられなくて、間にメディアを使う。だから人間に頼んで会いに来ざるをえない。だからわたしは頼まれて、こう言ってくれと言われたから言いにきた。もちろん横尾さんは、例によって笑って、やっぱり変なのが来ちゃったと思って。そしたら女性は三十分くらい、横尾さんは神戸の北の人なんだけれど、子供のとき山登って円盤見たような気がするとか、人に話したようなことないこと延々と話すんです。横尾さんはどこで聞いた?と驚きました。そしたら、宇宙人はこれを話しつづければ横尾さんは信じると思ってるからという。一回横尾さんにコンタクトしてるはずなんだともいいます。三島由紀夫が亡くなったとき、横尾さんは親友でしたので、疲れ切って涙も枯れて新宿の赤坂プリンスに泊まっていました。眠れなくて、それでベットに倒れ込んだ時、自分の体ががっと空中に一メートルくらい浮かんで、人の声がした、という夢を見たのは覚えていました。女性によれば、そのときがコンタクトだったそうです。ただ様子を見てあきらめた。なぜ会いたいんだと言ったらば、宇宙人がプロジェクトで、地球人というか、いろいろ受け持ちがあるんだと言われたらしいんだけれども、まずは日本の人を係にやられたんだ。いろいろ試みているんだけれど今までは失敗した。最後が横尾さんで、もし失敗したら、プロジェクトはそれで終わりと言われたと。誰で失敗したんだと聞いたら、松任谷由美って言われたらしい。ともかく横尾さんは、宇宙人に北極の何万キロ以上も上に浮かんでいるマザーシップに連れて行ってもらって、さっき言ったピカビアに会わせてもらったそうです。
いくつか訓練をやって、最後の訓練が終わった段階で一切コンタクトしない。そのあと横尾忠則として活動すれば、わたしらの思い通りのはずなので、どうしろという命令はしないと言われたという、なかなか不思議な話です。最後の訓練は「かわとび」という訓練なんです。これは、今週土曜日の午後五時までに、愛する人を一人殺すという訓練だったんです。当時、横尾さんは、千葉か、東京の西の、マンションの高いところにアトリエを持っていたんですが、さすがに人を殺したくないんで、まず最初に家族に来るなと言いました。誰を愛しているかわからないんで、アシスタントは男なんだけども、もしかしたらきみも愛しているかもしれないんで、きみも来ないでくれと言った。ともかくもう最終訓練はやらないことにして、一週間分、食料を買わせて、その間、テレビも見なかった。なぜならばテレビを見た瞬間に、誰かを愛してしまうかもしれないから。街に行くと誰かに一目惚れしてしまうかもしれないから外出もしない。たまたまこの話をしている横に、楳図かずおさんがいらっしゃって、横にいる楳図さんの顔を見て、「ぼくはきみを愛しているかもしれないだろうが」と言いました。二人は不思議な関係です。楳図さんは、そういう話大嫌いなんですよ。だから途中で楳図さん、「ぼくがそういう話を我慢して聞くと思ったら大間違いだ」と言いながら、飛行機の格好して、真っ暗な校庭に走っていっちゃいましたから。楳図さんは実はホラーな話は大嫌いなんです。
横尾さんはともかく、一週間、それで部屋に籠って、約束の土曜日の五時になって、涙が止まらなくなった。この訓練をやっていれば、少なくとも日本というか、何かを救う、というプロジェクトがあったらしいから、それを断った以上はそれもない話になるんだろうな、これでプロジェクト終っちゃうのかもしれない、ということで涙が止まらなくなった。そして約束の五時になったら、四機か、五機か、三機かな、の飛翔体がぼんと、マンションの前に浮かんでいた。五万キロから降りれないはずですし、実物は直径五キロだから要するに、立体映像なんです。それがぐるぐる回っていると、訓練は終わったと告げた。横尾さんは誰も殺していないのに訓練が終わったことに驚いて、もしかすると知らないうちに殺しちゃったかもしれないという恐怖に襲われた。自分の絵を見て自殺したとかというともありうるわけです。だからぞっとした。そしたら十分立派に殺したという。またぞっとして、というかどうしようと思った。窓からなにか投げて何かあったかもしれないし、人っていうのは宇宙人にとっては鳥かもしれない。これは出来過ぎたと思ったんですよ。そしたら、一週間でおまえはおまえ自身を殺した、と言ったそうです。格好いいなあとため息が出ますね。それで、以降、自分は宇宙人の言う通り、自分として生きればいい、と。文藝春秋社に行けば自伝は絶対出してくれるというアドバイスもくれたらしい。
ぼくは白虎の連中が好きでしたけれど、この頃は末期症状だろうなと思って見ていました。ちょうどそのときに結構すごい才能がある女の子が事故死したんですよね。訓練生あがりで入ってなかなか筋がいいと言われていた子が、たまたま出張の金粉ショーにいった先で交通事故に巻き込まれた。ホテルの若旦那みたいなのが迎えにきたんだけれど、そのまんま壁にぶつかって、若旦那は助かったんです。ただその子はベルトしないで踊りの衣装を持っていて、窓から飛び出して死んじゃったんだけれど。実はそれが解散のいろんな意味でのきっかけになったんだけれども、大須賀くんたち白虎の主催者の連中がその娘さんの追悼会としてフェスティバルみたいのをやったんです。そしたらお父さんがかなり怒ったんです。娘が亡くなったことについてはお父さんは一言も言わないで、こんなに酷くなった踊りで追悼しないでくれって言ったんです。そのときに実はぼくも大須賀くんになんでこんなことやってるんだよと言いかけたんです。なんかおかしいと。うまく説明できないんです。ただ見ていても適当な理屈ばかり、あまり考えもなく、要するに大道芸と言ってみたり、つまり誰も納得していないんです、踊ってる連中は真剣だけどね。ただショーとしては見ることはできる。でもこのお父さんは本気で怒ったんですね。こんなことのために彼女は死んだのかと。
舞踏については今まで話したことくらいの経験しかないので、舞踏というのはなにかということは言う権利はありません。それなのになぜか室伏さんが会いに来てくれました。京都に来てくださったのが先か、横浜が先か、なぜか順番を覚えていないんです。そのときに一緒に呼ばれたのは、昔からの室伏さんの知り合いだったんだけれども、ぼくもついでにと思って行ったんだけれども、そのあとに京都に遊びにきてくださった。そのあとに、横浜の大学で室伏さんの踊り初めて見てすごく驚いた。このことについてはあとで短くだけ言います。まだ室伏さんの踊りをまだ見ていないときか、あるいは見たあとなのかもしれないですが、ぼくは舞踏ってダメなんじゃないですかと、ほとんど思いつきで言ったことがあります。彼は怒らなかった。ある意味ではジャズもそうだけれど、同じことを反復するということはよほど強さがなければ、結局は文字どおり、同じことの反復に終わります。つまり一番悪いときのジャズですね。ヨーロッパ音楽が素晴らしいかは別です。クラシック音楽というのはよくも悪くも変化しないといけない。その変化にはちゃんとした理由、ある真理、ある目的がある。クラシックの場合は宇宙論と同時に動くので、ある方向に向けて動くから自分を変化させると。その変化は、ヨーロッパ独特の言葉でいう、真理に向けて、─ だからわれわれの考える真理ではないですよ、おそらく─ 真理(幻想でもいいです、ファンタジーでもいい)に向けてやんないといけないという歴史性を持っていると。だから、五年前の音楽と五年後の音楽は、まったく違う。これはフォルマルティックに違うわけですよ。つまり、モーツァルトとブルックナーというのは雰囲気なくて、フォルマルティックに違うわけです。和声学的にも全部違っていく。これはおそらく当時の宇宙論と並行しています。ヨーロッパ中世では、天文学と幾何学と音楽は纏められていました。修道僧は他のことはすべて禁じるけれどもやってもいいという中のひとつが、天文学でした。なぜかというと、神がつくったのは宇宙だから、それを知ることは重要だからです。それと同じ科目の中に、音楽が入っている。ヨーロッパの宇宙論の変化で言えば、神がつくった宇宙はすぐわかるわけじゃないから、わかるまで宇宙、天文学は変化するので、音楽も変化しなければならない。こんなことを室伏さんとぼそっと話しました。ヨーロッパの音楽、よくも悪くもとく歴史性を持って動いている。ただ、日本に限らないけれども、ジャズでも舞踏でも、もとからなにかに向けて動くというよりも、かっこよく言えば垂直的に今に向けて動く。ただ悪く言えば、同じことの反復になる。つまり、より深く飛ぶか、軽く飛ぶかはおくとしても、全体が時間的に変化していく。これはもうこっちは知ったかぶりでしゃべってるわけですが、そのときに、室伏さんは、なんかそうなんだよねと話しました。もちろん踊っている人間は本気だけど、同じ場所でやるから、気を抜けば、いくらでも気を抜けちゃうんだ。そのうち自分を誤解しちゃう。そのときは、大須賀さんのことを言ったんです。その前に、大須賀さんと横浜で会ったんですが、あれだけ長く付き合ったのに、こっちのこと一切見ないんです。ここに座っているのに挨拶もしない。挨拶しろという意味じゃないです。これは大須賀くんの批判をしたわけじゃないんです。土方さん自身はもとからヨーロッパダンス、モダンダンスから始まった人だから、むしろ垂直に時間を止めたらどうなるか、みたいな、日本の様式を積極的に入れたらどうなるかを発見した人で、それを力として見つけた。ただそれが、お祭りみたいに様式化してしまう。そういうときはどうすればいいのかね、という話です。
来年はドゥルーズの生誕百年で、実はミシェル・フーコーはドゥルーズよりも一歳歳下ですよね。2026年がミシェル・フーコーの百年祭です。安部公房、三島由紀夫とほぼ同い年です。フランス現代思想って、三島や安部公房と同じ世代です。ぼくは哲学研究をやりたかったわけでもないし、ちゃんとした文章書けないんです。ぼくは研究者に向いてない。というかなる気もなかった。だからいい加減なもんなんです。なのになぜ思想的な文章を書いたかというと、ひとつ一番簡単なのは、学生運動の次の世代だからということです。学生運動があったときぼくは小学生、中学生だった。例えば丁度ぼくが芸大入ったときは、ぼくは美術学部ですが、亡くなった坂本龍一はぼくよりすこし上の音楽部で、ただもうすでに有名人だった。ポストモダンって、もはやいつのまにか死語であるか、あるいは定着してしまったのか。ポストモダンというのは、現流行現象みたいな言葉です。これはご存知のように、ジャン゠フランソワ・リオタールという男が「今日のポスト・モデルヌ」という本を出したことで始まる。日本では小林康夫が『ポスト・モダンの条件』として出したものですね。これは意外なことにアメリカで売れたんですよね。フランスの哲学者が書いたものがアメリカで売れるってあんまりないんです。今、お読みになって意味があるかどうかぼくにはわかりませんが、リオタールさんはとてもいい人らしいですよ。日本の留学生、みんな彼に救われているらしい。小林康夫さんは最初デリダにつきたくって、しばらくなかなかつけなかった。どこかの教室に入らないと留学が打ち切られちゃうんで、リオタールのところしか思いつかなくて行ったらしい。ただ紹介状もないんで、リオタールが授業をやってる教室の前で待ってたらしいんです。二時間、三時間と、だらっと待っていたら、がっとドアが開いて、そしたらでかい犬が二匹、小林さんに飛びかかってきて、ゆっくりとリオタールが出てきて、「やあ」と言ったそうです。
ポストモダンに戻ります。芸大ではもっと雰囲気が違ったんですね。美術、とりわけ油絵の連中がもろ直撃を受けたわけです。思想の直撃じゃない、まずは表面的な直撃です。絵の世界ではポストモダンと言ってもリオタールは関係ない。そのときトランスアヴァンギャルディアというのがイタリアで起こったり、ニューペインティングあるいはバッドペインティングとか、新しい絵の潮流というより、もう近代絵画は無視していいんだという、悪く言えばだらしない、そういう流れがどんどん出はじめた。絵の連中は、大体本なんて読めやしませんので、ポストモダン的な気分が本を通じてわかったとか、そういうことはないわけです。ただ単純に、展覧会の絵を見ていて、彼ら直感的にはわかる。もちろん予兆はあるわけです。美術の世界って色々な意味で、感覚的なプレッシャーが強いわけですよ。現代美術、たとえば前衛という言葉でも結構ですが、そういうふりをやらなきゃいけない。年上ですがハイレッドセンターの連中とかも、そういうのを経過してきてるわけです。絵の連中は、つまり絵画には目的があるかのようなふりをしろとやらされてきたんです。ある極点、極限、不可能性と言ってもいい、なんでもいいです。それを目指すふりをしてきたのを、それが終わったと言われた。これって変な感じがしないか、単純で、本当に子供っぽいことです。つまりそれがポストモダンと後に言われるようになるんだけれど、絵には目的があって、価値があって、理由がある。つまり絵が好きだとかいうことは措いて、彼は一応絵がうまいし、絵が好きで、ただ描くということ、描く側に彼はいるので、そのときに、描くことにはこのような理由があるんだと。大袈裟に言えば、超越論的な、あるいは超越的な、形而上的な理由でもいい。それがなくなったような気がする、という子供っぽい直感なんです。この直感が、芸大には響いて、70年代末から80年代末の芸大って、ものすごい変だったんです。うまく説明できないくらい変でした。呆然としている感じですね。ぼくは芸術学科という、理論学部なんですよ。戦中は師範科として絵の先生をつくる学科だったんですが、戦後にしょうがないんで、なんでもドイツ語使えばいいと思った世代なんで、クンスト・ヴィッセンシャフトで芸術学の学部をつくったらしい。そのくせ現代美術はないんですけれどね。藤枝晃雄さんが、後に非常勤で来て、藤枝学派、藤枝チルドレンという連中が美術界の上の方にいたりするんですけれど、美術の連中は美学なんて歯牙にもかけないわけですよ。しかも、芸術学科には現代美術はなくて、イタリア美術史とか、仏教美術とをやってるわけですし、美学といえばバウムガルデンで、要するにカント以前ですから。珍しく、その頃油の連中が、ぼくらの、芸術学科のところにやってきて、わけわかんなくてやってらんないんだ、なにが起こっているかきみらは知ってるだろう、と聞くんです。
たまたまそのときにドゥルーズ゠ガタリの『リゾーム』の翻訳が出たんですね、豊崎光一さんの訳で朝日出版社に中野さんっていう革命的なというか、困った編集者がだしました。『ミル・プラトー』の序文が『リゾーム』なんですけれど、当時出た『リゾーム』っていう単行本は、少しだけ、書いてあることが違います。ちょっと変わった形態の造本です。ぼくはたまたまそれを持っていて、実はそのとき、ぼくはドゥルーズは全然知らなかったが本屋さんに置いてあって、最初リゾームってなんだ?とみると著者がドゥルーズ゠ガタリって書いてあった。読んでみると、さっぱりわかんなかったです。わかんなかったけど、ものすごい元気出る、と。いいのかこんなことで、といくらかは思ったんです。でもとにかく、意味わかんないけど、元気出るよっていう感じがしたんで、半分冗談で、なにが起こっているんだって言いに来た油の連中のところに貸したんですよ。そしたらみんな元気を出して帰ってくるんですよ。わかったのかというと、わかんないけど元気出ると。だから最初の出会いはひどいもんですよ。哲学がわかんないやつでも元気が出る本が存在するらしいというということがわかった。ドゥルーズ゠ガタリとの最初の出会いはそんなことで、ひどいもんですよ。なにやってんだっていう感じです。
ただ、その後に、ポストモダンっていうことを少しまじめに考えるとおかしいですね。何がおかしいかというとひとつはですね、これもまた図式なんですが、なぜ彼らがやりはじめたのかというと、美術の連中がこの百年間やってきたかというと、ひとつは、モダンです。しかもモダンなんて言葉も喧嘩になるわけですよ。たとえば、近代って訳すじゃないですか、ポストモダンって言ったときに。ポストはいいとして、モダンってなんだったのか。なんでこれを近代って訳したのかということですよね。そこから入るわけですよ。ランボーの『地獄の一季節』、あるいは『地獄の季節』、たぶんほとんど最後のセリフが、小林秀雄だと「絶対的に現代的でなければならぬ」です。ablsolement moderneで終わるんですよね。英語で言うとabsolutely modernにならなければならない。becoming mustって。これどう訳すって。小林秀雄は「現代的でなければならぬ」とmodernitaは13世紀からあるんだけれど、意味はモードです。モードは流れ去っていく、流れゆくことで、だから流行って意外と直訳なんですよ。モードはむしろ様相とか、現れて消えていくという意味です。だから13世紀のmodernitaは、むしろ永遠に対して儚いものというような意味なんです。だから永遠に対してmodernitaであるわれわれ、日本語で言うと、浮世にしか過ぎない泡のようなわれわれ、modernっていうのは、単に今のわれわれということでなくて、時代の保証にしなければならない、われわれがそうなるんだって言ったのは、ご存知のようにボードレールです。ボードレールは、19世紀はmodernité、モダーンというしかないと言いました。ネガティブに言えば、われわれは永遠を失って、要するに泡のような日々(ボリス・ヴィアンの「日々の泡」は直訳すれば、あぶくのような日々という意味なんです)になりなますが、ただボードレールはそれをポジティブに取ろうとする。「現代生活の中の画家」の「現代生活」もモダンライフです。さっき言った意味では流れ去ってゆく人生の中における画家という題名でしょう。でもいろいろ説明したあとに今最高の画家はコンスタンタン・ギースだってと言って終わる。これを、どちらかというとボードレールは皮肉で書いている。ボードレールはマネの友人だったし、絵描きはたくさん知っていました。コンスタンタン・ギースって、いまで言うスケッチ画家です。当時、写真はもうできてましたけど、新聞に写真を載せることは意外と少ないんです。その代わり、絵入り新聞なんです。今はどこかで事故があったら写真撮りにいくじゃないですか。コンスタンタン・ギースはそこにいってスケッチをして、こういうことが起こったよと伝えるジャーナリスト絵描きなんです。ボードレールはなぜ彼を褒めたかというと、いま消えていくのを描くのが画家、それしかないものを永遠のものにするのが画家ならば、彼以上の画家はいま考えつかないから、つまりもはや永遠をバックボーンにできない以上、いま消えていくものが永遠の代わりにならないといけないという理論からです。
それにつながってマネが、面白いことを言っているんです。美術史の授業みたいになっちゃうけれど、マネも不思議な人なんです。なんでマネの研究が多いかというと、マネの発言が少ないので、なぜああいうことやったのかよくわからないんです。ゴッホはいっぱい手紙書いているんで、少なくとも推定できるんです。こんな気持ちで書いたんだろうとか、少なくともこういう切羽詰まって書いたんだとか、こういう幻覚を見たとか、なんとでも理由をつけられる。モネもできるし、それからセザンヌもできます。だから小林秀雄は『近代絵画』で手紙とか発言で本を一冊書けたんですが、マネは論じていません。マネってほとんど発言がない、というかなに考えていたかわからない。でも手紙が残っていて、しかし手紙も変な、いい加減な手紙です。ボードレールに、わたしはいい絵描きだと思うけれどなぜみんなに褒められないのかと聞く。そしたらボードレールは、きみは今の時代の最高の画家だとわたしは認める、きみは今のヨーロッパと絵画が老衰状態になった時代の最高の画家だ、それを忘れるな、という手紙を書いています。
ともかくそれが、モダンですよね。すべて泡のように消えていく、泡のように消えていくものを永遠にしなければならないっていうのがモダン絵画だとしましょうと、そういうふうに理解したわけです。こっちも学生ですから、このようにモダンの様相みたいなのは説明できましたよね。すべては過ぎてゆくと。これって、絵を見ないで言葉だけでの説明で、日本だって一緒じゃん、日本こそがまさに浮世というか、floating worldって訳すけれど、だって浮世、過ぎていくものを絵にする、だから浮世絵人気あったんだっていういい加減な説明で納得させたりしました。だけどこんな理解じゃさすがにまずいだろと思って、だから哲学に興味があったんじゃなくて、まずそれを知りたい、絵を描いてる連中に説明してあげたいと思ったんです。自分もわかんないわけだし、それで哲学をはじめたんです。だから、初歩的なことしか言えないんで、本当にそれこそ図式化してしゃべります。
ミシェル・フーコ―に、『言葉と物』という本がありまして、日本語訳で上下二段分で四百ページ近くある。最後に近い労働、生命、言語という章に、リカルドっていう節がある。すごく短くて、非常に図式的に説明しているんですよ。それから19世紀の本論に入るんです。フーコーって、実は単純な構造で、その単純さが彼らにとって必死なことだったんだと思えなければ、ヨーロッパ近代のことは理解できない。簡単に説明してしまうと、19世紀になにが起こったのかがテーマです。リカルドはイギリスの経済学者で、経済学史ではリカード、マルクスというふうに並ぶんですけれど、19世紀になって初めて、さっきのモダーンと同じで、ヨーロッパ人の思考の主題の中に、人間の有限性というのが全面的になってきたという話です。極端に言えば、人間の生命は能力とかすべてを含めて儚いね、ということです。
例えば、18世紀までの経済学は、神がつくった世界は本質的に豊かで、その豊なものを人間は手にして、加工したり、とかくそれをexchangeしたり、商業という、いわゆる経済行為にしていくというシステムの説明をしていた。しかし、リカードは初めて、世界は貧しい、希薄で、貧困だ、つまり世界は全ての人間を維持できるほど豊かではない、だから人間は労働をしなければ生きていけない、したがって、労働という条件が人間の経済行動の中心、中枢、人間の中心になることを考えた。だからその鏡のもう一面として、マルクスが労働者という言葉ではじめたんだって、フーコーはそうやって説明していくんです。それまで世界は豊かで、われわれはそれをどう組織するかという見方をしていたのが、そうではなくて、世界は貧しくて非常に生産力低くて、それを労働する以外に人間は生きていくことができない、それゆえ労働するということは人間の本質のはずなんだ、労働をするから人間は生きていられる、貧しいから労働するんじゃなくて、労働と世界の構造は一致している、19世紀になって、人間は有限だということになった、それを見なきゃいけない、世界はいかなる豊かさも、保証してくれない、という素朴な、ある意味では単純と言えば単純な事実を指摘するんです。そういったものと本気で出会って、主題になったんだということですね。そこで成立したものをアントロポロジーと言うんですけれど、今でいう人類学という意味ではないですよ、人間学ということです。人間というなんでこんなに無駄な、こんな壊れやすいものが存在するのかっていうやつですよね。それは日々過ぎて死んでいく。それは、ある意味ではボードレールのいう、モダーン、過ぎてゆく、要するに浮世の存在みたいなものですよ。それが発見なんだと。
だからフーコーは、近代のエピステーメー(エピステーメーというのは思考の歴史というくらいの意味です)をつくるのは、ヨーロッパのオクシタン、世界の普遍じゃないと、何回も繰り返すんです。そこでhistoricitéが出てくる。歴史性と訳していましたが、日本語だと、historyと思ってください。この場合のhistoryというのは、簡単なことで(ヘーゲルを思ってもいいです)ストーリーには目的があるというような意味でのhistoricitéという感覚で理解してください。つまり人には様々なことが起こるという出来事の話じゃなくて、様々なことがこうであることには目的があるということの、その目的に向かうことがわれわれのいろんなものの、ことの成り行きだという、それをhistoricitéというか、歴史性と言っていると思ってください。19世紀は、人は虚しいということと、historicitéというか歴史性というのが、両方同じ主題として重なったんです。簡単に説明しちゃえば、世界はこんなに虚しいけれども、しかし虚しさの人間の中には必ず間違いなく、目的があるんだっていう考え方だと思ってください。これが19世紀の思考なんだす。きわめて馬鹿馬鹿しいように見えるものですけれど、フーコーの最大の主題です。当たり前なんだけれど、なぜかということをフーコーはあえて意図的には分析しないんです。ヨーロッパでは、目的があるということは、彼らにとって前提なのです。つまり贖罪性っていうやつです。神は完璧な世界をつくった。面倒くさいからアダムとイブにしちゃいます。アダムとイブが悪いことした。原罪ですよね。その結果、非常に複雑なことが起こるんです。この世界と宇宙は、神が完璧につくったのに、散らかして汚して様々なしみをつけて、彼らがやっただけでなくて、黙っていた連中、つまり悪魔まで出てきて全部にしみがついてしまった。せっかく神が完璧につくったものを人間が壊したんだと。これはユダヤ教、キリスト教、イスラム、同じで、この中でキリスト教が一番極端です。ユダヤ教も、バベルの塔の結果、いろいろなことはやるんだけれども、人間は愚かでっていう考え方はしますが、贖罪っていう考え方をしないんです。ユダヤ教は自分達に関わった不幸という取り方はするけれど、贖罪という言い方はしないんです。イスラームでは、贖罪以前に、神は人間が要求するほど小さくない。逆に言えば、おまえら人間は神にいかなるものも要求してはならないっていうふうになる。もっと厳しい。
贖罪とは、要するに自分たちで散らかしたんだから元に戻せということです。元に戻すのは、もっと深刻なことです。元に戻すことが義務だし、当然、贖罪になるわけです。世界に達成すべきすごい目的があるんだ、みたいな話ではなくて、目的が最初はあったんだ、あったものを台無しにしたのはおまえらだ、つまり自分たちですね、しかも元の状態はなんだったかほぼ覚えていない、でもともかく元に戻せというのが彼らにとっての目的だったし、元に戻すなら元の状態がなんであるかはいつかわかるだろう、みたいになるんでしょうけれども、だから彼らの歴史は一直線なんです。キリストが死んでからか生まれてからか分からないけれど、2024年目にわれわれは今いるわけです。つまり世界は虚しい、人間は虚しいものだと。これにわれわれは驚きもしない、そうだよねって言えばいいだけの話です。もうひとつは、ただそこに、でも世界にはこの中にはなにか目的があるはずなんだ。例えばどんどん人口が増えれば最後は滅んでしまうとなるのを、どこかで、ある瞬間に調整して、自然な貧しさと人間の労働の価値というのが一致する場所で世界は安定するだろうと。それがリカルドの考えなんだとフーコーは言う。マルクスの考えは、最後の安定が来るんじゃなくて、むしろ世界の貧しさのぎりぎりまで、死の極限まで押し込められた人間、つまり労働者たちが、ついにはじめて最初の世界を思い出す、神がつくったときの極限の状態、つまりもう一回世界を別のものとしてもっとよきものに、いまのものとは違うものに作り直すということになる、と。これもフーコーの言い方で、ぼくのマルクス理解じゃないです。この二つに共通しているのは、目的を果たさなければいけないということで、これが近代だ、つまり儚さと歴史性、これには目的があるんだっていうことが近代だということです。マルクス主義に対してフーコーは、マルクスごとき、みたいな書き方をするんですが、この二つの経済は要するに19世紀のエピステーメーになる。どちらにしろ、この二つの中に作られた近代的な思考は、ひとつもののふたつの面に過ぎない。いかにも彼らは片方が片方を批判するような議論をする。それは海のような議論の波を起こしているように見える。しかしそんなのものは子供のプールの遊び以上ではない。なぜそんなことを書くかというと、フーコーたちの世代は共産主義というかマルクス主義に苦しめられたんです。日本でもそうですね。フランスでも、高校生なら一回は共産党に入るべきだ、みたいな感じがあったらしいです。ぼくにはわかりません。フランスはマルクス主義者じゃないけれどマルクス主義者を必要して信奉するサルトル一派がほとんど60年代を支配した。その後もフランスは変な時代だった。ミシェル・フーコーもあれだけ有名だったのに、イギリスに旅行に行こうとしたら禁止された。当時、同性愛者の自由は認められていなくてかなり締め付けが強かった。だから、ミシェル・フーコーもロラン・バルトも、大学の先生になっていないでしょ。コレージュ・ド・フランスはパリ市がやっているものだし、パリ市はそういう法律を持っていない。国立のものは同性愛者に対する差別があったんです。それも考えないと、フーコーの怒りとかは分からないんです。もう一回言います。はかなさと歴史の目的性、それがついに最後のヨーロッパになった。その背景に、呆然と永遠のものがあると信じていた信仰とか理性という絶対的なものが、少なくとも19世紀の段階で崩壊した。最後の場所としてそれを見つけて、まさに近代というのは、歴史性と有限性になったんだと説明しているんですよね。
ここから引き算していけばいいんです。まずは歴史性から引き算する。リオタールの本は簡単に言えば、グラン・ミュトス、つまりわれわれが信じていた歴史の神話みたいなものですね、それが死んだんだという言い方をするんです。それがポストモダンなんだと。だから、大きな神話というやつはなにかというと、われわれには贖罪の義務がある、その贖罪を裏返しすれば、歴史には目的があるということです、それが死んだ、それが終わったことがポストモダンなんだと。これがひとつ挙げられます。つまりモダンが終わったというのは、フーコーのいうhisotricité=歴史には目的があるという幻想が19世紀に終わったということで、実はこれだけで、日本でポストモダンは理解されたんです。笠井潔っていう知り合いがいます。笠井は年上なんですけれど、学生運動のときの指導者の一人なんで逃げ回ってパリにいた。笠井さんが、要するにポストモダンっていうのは歴史の目的性が消えたということなんだろう、というから、そうみたいですねっていう話をして、そしたら笠井さんが、ということは日本万歳ってことじゃんか、つまりもとから日本は歴史信じたことないから、だから日本に戻ればいいということが起こったんだ。つまり流れていく浮世のような、floatingという国である(必ずしも笠井さんはネガティヴに言ってるんじゃないですよ)、これは日本の勝利じゃないか。われわれは楽になっていいわけだ。つまりわれわれが近代に辛かったのは、歴史に目的があるというヨーロッパ人のことを本気に信じようとしたから漱石みたいに自己分裂を起こしたんだ。それを相手が諦めてくれた、最高じゃんと言ったんです。それだったならば、たしかに目的性が消えて、流れゆく、モダーンな、つまりモダーンというのを、現代と訳さずに、流れゆくものと、だからさっきのランボーで言えば、絶対的に流れゆくものでなければならぬと訳すこともできる。ただ絶対的に現代的と訳しちゃったらぴんと来ないんで。でも流れゆくものならばfloating worldでいいじゃないか、と。実際、その頃、いろんな意味で日本は変に生き生きしてきたわけですよね、色んな意味で。ただ、なんかぼくもやばいと思ったんです。それでいいじゃんと、実際、芸大でも日比野克彦みたいなのが(今の学長です)出てきて、実際これがポストモダンとして定着しかかったんです。その究極が村上隆のあのスーパー・フラットってやつです。でもそれじゃあまずいんじゃないかと。でもフーコーはそこは二重だって言っているんです。有限性に対するアントロポロジーと歴史性と二つあって、まず歴史性の方が崩れた。片方が崩れたら、もう片方も崩れないとおかしい。つまりアントロポロジーの問題です。日本で言うと、山川草木悉皆成仏と、国破れて山河あり、つまり流動する世界への諦めと肯定になる。でも山川草木悉皆成仏の中に石が一個もないんです。国破れて山河ありの中にも石がないんです。なんとか川と水と山だけがある。これは和辻哲郎的な風土論を言おうとしているわけじゃないです。つまりヨーロッパの中で自然の定義がありまして、別にヨーロッパは厳しい自然を敵にしていたというわけではない、これは神学の定義です。中世の神がなにかというと、ひとつは創造され創造するものです。この創造され、とつけるのは接頭詞としてつくだけです。そして創造され創造しないもの、これが自然です。両端にあるんですよ。あとひとつは創造せず創造するもの。最後は、創造されも創造しもせず、があり、これも神です。世界に興味がない神です。つまり自然は二重化している。肉体的な生命力の下に創造され創造しないもの、鉱物=石があるんです。いまのイメージじゃないですよ。当時のイメージでは、ようするに完全に不毛なもの、石、ステラみたいなものです。フーコーはこの二重構造をもって、近代はたとえば片方がhisotricité、つまり歴史には目的があるといったとき、もうひとつ、近代が生命を発見したという言い方をするんですね。逆に言えば、生命というのは有機的で、創造され創造するものの中心とした動き─生命が砂漠の中で自分を維持しようかとしているみたいなイメージを持ってください─とするのを発見した。それが崩れる。生命とか人間学のほうでは、崩れていく中で自分の生命を保つものとして自分を発見する、生きるということを発見しはじめるんだ、みたいなことが19世紀にあったっていう。すると、歴史性が消えたら、生命が消えたと思ったんです。日本では歴史性が消えずに、生命のリズムだけが残ったというふう捉えることができた。これがいいか悪いかは別です。ただヨーロッパの場合はそうではないだろう。つまり生命というものは消えたわけじゃないです。崩れていく。つまりエピステーメーとして崩れていく。つまり崩れていく場所に鉱物という概念があるんじゃないかということです。これは日本の中にはない。
器官なき身体とはcorps sans organeで、ご存知のようにアルトーに出てくる言葉です。豊崎光一さんが訳したときの名訳として定着しているし、完全に間違いでもないからこれでいいのですが、宇野さんに反対してしたことがあります。なぜ反対したかというと、corps sans organeは、砂のような、鉱物のような身体、概念がなければおかしいんじゃないかいうことです。その頃、エンジニアになるために日本に来たフランス人の二十歳くらいの男子がいたんですよ。彼にcorps sans organeと言ったらどう聞こえる?と尋ねたんです。単語としてなにか彼はドゥルーズもアルトーも知るはずもない。そしたらcorps inorganiqueと言ったんですよ。corps inorganiqueって、要するに無機物っていう意味です。corps organiqueは有機的という言い方なで、inというのは否定形で、sans というのはwithoutですね、without organとやったんだろうと思うから。それで、アルトーの中の文章いくつか見ると、砂のような、鉱物のような、あるいはそれを混ぜたような身体という言葉がときどき出てくるんですよ。
ポストモダンは歴史性の崩壊だけじゃなくて、この砂のようななにかが、身体性として入ってきたんじゃないか。山海塾の天児さんは今年亡くなったけれど、天児くんがまずいのは、結局やっぱりあれはヨーロッパ人が見る上での綺麗さに寄りすぎちゃっていて、最後は象徴主義になっちゃったことです。これに対して室伏さんには驚いたんです。室伏さんの動作って、有機的じゃないんですよ。ぼくはそう感じたってことです。これはもう感覚的な説明しかできないのですが、動作の数が少なくて、砂みたいな感じがしたんです。それは、白虎社の大須賀さんたちのやるものに感じることはないんです。フィルムの中の土方さんには感じたかもしれない。土方さんも根は西洋の踊りじゃないですか。だからこそつまり土方さんは、体の中でヨーロッパの中に、砂みたいなものを感じていたんじゃないか。感じた上で、それでそれに対抗するために、日本の身体というのを持ち込もうとしたのかもしれない。でも室伏さんは、どっちにも行かない。有機物にも行かないし、砂にも行かない。これは死という問題ではなくて、つまり有機物の死ではない。その上に乗っかる生命の網目みたいなもので、結局、インターフェースですよね。しかも自分の生が存在しないインターフェースですから、これは欠落としか言えない。室伏さんの踊りは、室伏さんは、もしかしたらそれを踊ろうとしてる人なんだと思ったんです。だからいままで見た踊りと違うと思った。大須賀くんたちが間違ったとは言いません、ただ大須賀さんたちの限界や知識は南方熊楠だった。南方さんは偉い人ですけれども、でもそうではなくて、多分、室伏さんには、目的性のなさの中に、身体の反復ではなくて、身体の反復の崩壊というか、もうひとつの崩壊、つまりアントロポロジックなものの崩壊というか、崩れがある。だからまさに文字通りの意味でcorps sans organeです。誤解するとcorps sans organeって有機性のイメージになってしまうんですよ。浅田彰がが若いとき、corps sans organeについてちびくろサンボのトラバターみたいなものだと話しているんですよ 。いまちびくろサンボはポリコレで読めなくなったけど、サンボが逃げて、走っているうちに速度が速いあまりにバターになっちゃいましたという話は子供には面白かった。もちろん浅田くんは、速度のことを言いたかったんだろうけれど、でもなんとなくバターってぬるって感じになってしまって、器官なき身体はぬるっとしたもの、ぬめっとしたものになっちゃった。だから翻訳を直せと宇野先生に言うことではありません。corps sans organeの中には、無機質、無機的なものが入り込んでいるということを言いたいんです。同世代の安部公房なら『砂の女』や『壁』にもあります。ニーチェには、哀れなるかな、うちに沙漠を宿したるものは、という有名フレーズがあります。ともかくポストモダンが、歴史性の崩壊と同時に、人間主義=アントロポロジー、有機性=生命に対して、違う要素が入り込んできて、それに耐えなければならない。と言うか、そこの部分がポストモダンに開かれた。室伏さんの踊りは、ただそれをその通りに正当に表現したものの数少ないものだと思っています。室伏さんのやろうとしたことがそこにあったっていう感じがします。
Infomation
Shyでの討議から成立した論集『アンチ・ダンス』を踏み台に、それを「踏みはずす」思想のダンスを追求します。ドゥルーズ生誕99年でもあり、室伏鴻の愛読したドゥルーズにちなむ語り、対話が続きます
日時
11月23日(土) 17:00〜
会場
室伏鴻アーカイブShy
Profile
丹生谷貴志
Takashi Nibuya1954年生まれ。東京芸術大学武術学部芸術学科卒業。同大大学院美術研究科西洋美術史修了。元・神戸市外国語大学外国語学部教授。著書に『光の国』(朝日出版社)、『砂漠の小舟』(筑摩書房)、『〈真理〉への勇気 現代作家たちの闘いの轟き』『ドゥルーズ・映画・フーコー』(青土社)、『死体は窓から投げ捨てよ』、『死者の挨拶で夜がはじまる』、『家事と城砦』、(河出書房新社)など。翻訳書に、シェフェール『映画を見に行く普通の男 映画の夜と戦争』(現代思潮新社)などがある。