Ko Murobushi Exhibition

Faux Pas/踏み外し

ウィーン、東京│2024 » 2026
2024.7.12
レクチャー

ダンスの記録 アーカイブから展示へ

大澤啓
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大澤今日は実用的な観点から展示づくりについてお話ししたいと思います。私は舞踏に詳しいわけでもなく、好きで見ては来ましたけれども、どちらかというと展示を作ってきました。アーカイブを構築して、それを展示して、さらにその先にどういうものができるかというのを考えてきました。その中で渡辺さんといろいろ話す中で、室伏さんのアーカイブをはじめ、そもそも舞踏をどのように展示することができるのかという議論をしたことはあります。これまでの経験を踏まえて幾つか展示の在り方について私の考えを示すのと同時に、室伏アーカイブの展示を今後どのように企画できるかというのを皆さんと一緒に考えていきたいと思います。いつでも話を止めていただいていいので、質問やコメント等がありましたらお声かけください。
 そもそも展示するにはまず展示物が必要です。これは非常に根本的な話ですけれど、多くの方はそれを忘れてしまいます。展示はアイデアさえあればできると思う方がいますが、アイデアだけではろくな展示はできません。まずはモノが必要です。そしてモノの次に技術が必要です。展示というのはさまざまな技術を要する実践的なものなので、モノがあって、それを展示するための技術があって、当然その背景には、最近は企画やキュレーションといわれますけれども、その構想があって、そして最後に同じく必要で重要なのが美的センスです。つまり、それはデザイン、形にする能力です。これらの要素がそろって初めて展示として成立すると思います。
 私は東京大学総合研究博物館にいるので、主に学術的なコレクション、大学の標本コレクションを扱ってきました。コレクションのアーカイブを構築して、それをもとに展示を企画するなかで、展示の作り方について考えてきました。
 1つの事例として、2015年にフランス・パリのケ・ブランリ美術館で企画した『雲の伯爵』という展覧会をまず挙げたいと思います。これは、この左側に映っている阿部正直という気象学者が戦前・戦時中に記録した気象学資料、特に富士山の山頂に現れる雲の記録写真や映画のコレクションです。このコレクションの寄贈を受けて、それをまずアーカイブとして構築して、最終的に展示しました。
アーカイブとして構築するというのはどういうことかといいますと、バラバラで残された資料をまず整理して、それを目録化して記載して、そこから意味を見出せるようにまずは整えるということです。そのアーカイブ化というのが手間のかかる細かい作業で、物によっては何年も、場合によっては数十年もかかるような作業です。『雲の伯爵』展の場合はその基にある阿部正直コレクションは写真、映画を中心に総数1万件ほどあると思います。アーカイブの点数の数え方は難しいもので、一点一点を数えると大体点数で数えますが、ひとまとまりとなっているものを1とする場合は1、単位を「件」として挙げることが多いです。この場合はコレクションを媒体ごと、メディウムごと、そして内容ごとに分けて年代順に整理して、それを一点一点記載した上でそこからモノを選んで、会場とそのテーマに合わせて展示を行っています。
 そして、この場合はさまざまなモノがありまして、その観測機器や記録機器、記録媒体に加えて、原稿、著書、そしてさまざまな写真。それはガラス乾板であったり、紙焼きであったり、紙焼きの中でもさまざまな技術を活用したプリントであったり。あとは映画。それもフィルムはさまざまなフィルムがこのような形で。そういう形でこういうものをまずは一点一点修復します。修復というのは、まずはきれいにして、傷んでいるものをまた活用できるような状態に直して、そしてそこから初めてそのモノを記述できるようになります。映画の場合は当然一点一点見なければいけないので、今ですとこうやってデジタル化して一点一点記載して、そして大体の場合このようにデータベースを作ります。こういうデータベースがアーカイブの基礎となります。
 物を整理してコレクションとして整えて、記載してアーカイブ化して目録を作り、そこから展示を作ります。それまでが博物館のひとつの流れですけれど、ここで止まってもちょっと寂しいというか、いまいち楽しくないと言ったら語弊がありますけれど、教科書を作っているようなものになります。ですのでもう一歩を踏み出したいと思ったときに、そのアーカイブをどのような形で活用できるかというふうになります。
 その中で、例えばこの場合はドイツ・ニュルンベルクの新美術館(Neues Museum)で2017年に『CLOUD BOX』と題したインスタレーションを設置しました。これはどういうものかといいますと、スクリーンが4面、天井に吊ってあって1つのボックスをなしています。それをくぐってその中に入ることができます。その内側にはこの阿部コレクションのさまざまな時代の富士山の山頂に向かう雲の映像がループで流れていて、当然その入るタイミングによってその4面の映像の組み合わせが違っていて、常に富士山の雲に包まれるという体験型の展示になっています。このようにして学術的な調査の基、あるコレクションを記載して、それを一般公開する。そこまでが博物館、もしくはミュージアムの仕事だとしたら、その次は大体アーティストの役割であると思われていますが、このような時代ですので最近はもうそこまで役割分担が明確になされているわけでもなく、そこは割とフレクシブルに自由に考えてもいいと思います。
宇野ちょっといいですか。さっきの阿部さんが映像作家でもある?
大澤はい。彼は面白い人物で、もともと備後福山藩の藩主の長男で、殿様でした。彼は明治生まれで、1891年生まれだったと思いますが、本郷西片に屋敷があってそこで育ちました。幼少期に、日本では割と最初期になるんですけれど、両国の料亭で映画の上映会が行われて、彼が父親に連れていかれて、日本最初期のひとつの映画上映会に立ち会います。映像に魅了されて、そこから映画オタクとなり、裕福だったので輸入品のカメラ、写真カメラや映画カメラやそういうものを幼少期のうちに揃えて、12歳の頃には自作のカメラもいろいろ作って、そしてずっと写真と映画を撮るわけです。帝大に入って物理学を学んで、寺田寅彦や藤原咲平など、日本の科学史において重要な人物の弟子にもなって、彼らの助言を受けます。そこまで映像オタクなら自分の研究にその技術を応用できるようにしなさいと言われて、彼は結局気象学を専攻し、最も捉えどころのない、儚い現象である雲、それをどのように観察して記録して、アーカイブ化するか、それに挑戦したわけです。彼が私費で創立した研究所が富士山御殿場にあり、1942年まで、その研究所で助手とともに雲を観察して記録していました、しかし戦争で結局1942年以降は、そもそも彼が行なっていた、風船を飛ばしたりといったさまざまな実験、そういうことができなくなり、いよいよその研究を辞めざるを得なくなります。結局、私費で御殿場に小さい博物館を設立することになります。晩年は西片に幼稚園を創立して、その幼稚園の園長として晩年過ごされて、執筆活動を続けていました。
宇野その映像は、その観察記録として?
大澤基本的に5秒~20秒ぐらいのいわゆるスニペットです。ある雲が現れたときに撮影された超短編映画です。観察用の記録映画であって、それが千点近くあって、それを基に阿部は3つの教育映画を編集して1920年代と40年代に発表しています。よくはできていますけれど、いわゆる記録映画で教育目的に編集されています。

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