Ko Murobushi Exhibition

Faux Pas/踏み外し

ウィーン、東京│2024 » 2026
2024.7.12
レクチャー

ダンスの記録 アーカイブから展示へ

大澤啓
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宇野そういうダンスとか演劇の特にもう亡くなっている人をテーマにした展示というもの、いろいろ、ブラジルなんかで盛んに土方さんとか大野一雄とかやっているのをちょっと知っているんですけど、そのときどういう方針の展示かというと、みんないわゆる教科書的な展示にならないように工夫はしているんですけど、例えばこのサンパウロでやった展示はどういう方針だったかというと、ちょうどそのときに居合わせなかったので資料を見せてもらって話を聞いているだけだった。
 今度、室伏さんのウィーンの展示に関しては、例えば大澤さんが提案したようなことも含め、今まで渡辺さんと話している限りでは具体的な方針というか、コンセプトは、それこそアクティベーションということですよね。ネルソンの意味ではなくなってくるかもしれないけど、コンセプトや、パフォーマンスとしての展示でよくあるような時系列、あるいはある主題を設けていく、もちろん主題が何かにもよるんだけど、そういう分類を壊してゆくときに、今のその地下室みたいなのに混ぜこぜにしたプロジェクションにするというのは割と刺激的な提案だと思うんだけど、今日伺っているとそれにはいろいろな手法がある、展示に関して。
 アーカイブの収集、そこのいよいよ展示となったとき方法論、そういうものを演劇やダンスに関してはいろいろな例があると思うんですよね。大澤さんはそのような展示をいろいろ見ているわけですよね、さっきのポンピドゥーのダンスのような。どういう例がほかにあります?

大澤私は学生時代から、いずれは大舞踏展が開催されるだろうと何となく妄想して、想像しているんです。もっともっと時間がかかるかもしれないけれど、いずれは誰かが。分からないですけど、例えば大野一雄・土方巽、その没後何周年というときに大きいミュージアムで大舞踏展をやりたいとなった時、非常に難しいと思うんです。例え、それぞれの当事者から、もしくはそのアーカイブから協力を得られて、もう自由に好きなように展示を構成できたとしても、さて、それこそ教科書的な、舞踏の刺激の欠片もないような生ぬるいものにならないためにはどういう企画が必要であるのかと考えたときに、私はそれを頼まれたらまず困ります。2年ぐらいずっと考え込むと思います。やっぱりまずは再現できないということを大前提に、踊りは再現できないということを大前提に考えるのが重要だと思います。それは、ある意味パラドックスでもありますが、それを蘇らせるためにやっているのではないかという期待を持って多くの人は展覧会に行くのかもしれませんけど、基本的にそれは不可能だと逆に明確に言った上で何ができるかと考えてできればと。
 もうひとつは、ミュージアムに行く人はまだ多いですけれど、結局デジタルメインでミュージアムに行っても結局常にタブレットや電子機器を使っているわけで、そういう状況の中、年表であったり、用語集であったり、そういうものは別にわざわざミュージアムに足を運んで見に行く必要はなくて、それはいくらでもケータイで調べられるものなので。そういうためにはデータベースが一般公開、ネットで普通に一般的にアクセスできればそういったために活用できるわけで、そういうときに活用できるわけなので、展覧会で完結するというのもそろそろ過去の話。自己完結型の展覧会もそろそろ過去の話ではないかという気がします。だからこそ別にリネアの分かりやすい教育的な展覧会を開催する必要は必ずしもなくて。年表を調べたいならケータイで見てください。例えば舞踏の大まかな系譜を知りたいなら、それも用意しておきました。ここでは体験できる、また違う次元で、知識とは無縁とまでは言いませんけれど、直接的なその知識とは異なる関係ない次元で違うものを体験してもらいますと。そういうアプローチを取ったほうが展覧会としては意義があって成功する気もします。
 もう一点加えますと、ポンピドゥーの「Danser sa vie」展では会期中、いわゆるパフォーマーが展示会場の中で踊っていたんですよ。まあそれがいいと思った方もいましたけれど、私は個人的に不気味だと思いました。何の意味もなさないし、ただそこで寝転がって頑張って動いている人がいた、どう見てもそこから得られるものは私にはなかったですね。そこもやはりダンス関係だから会場でも何かしらその要素を導入しなければという思いのもとで、試みとしては面白かったと思うんですけれど、結果的に私は失敗だと思いました。
 劇場もそうですけれど、ミュージアムというのは、ある意味、総合的な空間になるので、どの芸術でもどの媒体でも、何でも吸収します。ミュージアム会場というのは、昔の劇場もそうでしたけれど、美術も文学もアートも食も、ファッションも、もう何でも展示会場が吸収できちゃうので、そこがひとつのトータルな自己完結型の空間になり得ると思っている人が多いです。そう思うと失敗するケースが多い気がします。
宇野話違うけど、土方巽が世の中に再登場した時代に、まずやったことって昔のスライドを編集して、スライドをプランディング、見せた。そのときに土方さんは踊りを再現するということを、再現するという言葉を使ったかどうか知らないけど、とにかくかつての公演をどういう形で、スライドで見せるという、ただ、だから普通の見せ方じゃ面白くないわけです。映写機を持って歩いたりしてはなかったと思うけど、とにかくすごく激しくやっぱり動いて、幾つものプロジェクターを重ねたということをやって、かなりパフォーマンスをやったわけ。
大澤それ自体が、ある意味また別の作品になるわけですね。
宇野そうですね。上演だったみたい。それの記録があるのか知らないけど、國吉さん、ある?
國吉全体は撮っていないんじゃないでしょうか。ただ、あれが面白かったのは、映写機を持っているのが土方だったからですよね。
質問者2そうです、そうです。映像自体はもう土方さんがプロジェクターを持って、後ろでカーッと動かしていて、そのスライドも全て土方さんが選んで、写真というのを全部選んで作った。
宇野土方さんがひとつ持って動かしていたんですか。
國吉でもすごかったですね。何が起こるか分からないというレベルで、単なるスライド上映じゃなくて。
質問者2ずっと『アビイ・ロード』をかけて、ずっと動かしていたのは土方さんです。1人です。
國吉あれは土方さんじゃない人がやったら全然違うものになった。
木原質問いいですか。室伏さんの展覧会を企画したとして誰に見せたらいいですか。
大澤おそらくは渡辺さんに伺った話ですと、ホールは基本的に公演を見に来た方が通る場所なので、どちらかというとその展示を見に来る方よりも、公演を見に来たついでに待ち時間の間に展覧会を見るという方が多いと思うので、おそらく舞踏のことを何も知らない、全く関係のない人が多いんですよね。そうすると、ある意味ハイジャックのようなもので、その人たちの関心をどのように引くか。その挑発も必要だし、何かきっかけを作って、そこからだんだんと室伏ワールドへと導入していく必要がある。興味のある方はおそらくわざわざ展示を見に来ていると思いますけれど、どちらかというとオーディエンスというか、その来場者は舞踏のことを知らない方。そういう意味ではそれを踏まえて展覧会を企画しないと無視される可能性もありますね。というか。
木原オデオンシアターは、舞台芸術とか芸術を基本的に享受する素養のある人が来ることが多いだろうということですね。
大澤統計的に見るとそうでしょう。
木原じゃあ、とりあえずその場所じゃないとしたら、室伏さんのアーカイブ、映像なり、いろいろありますけど、誰に見せていくべきでしょうか。
大澤私は展覧会を企画するときにそういう目標を設定しません。ターゲットの設定はいつも断ります。宣伝広告キャンペーンをやっているわけではないので、ターゲットはないです、みんなに見てほしいと必ず言います。もちろんその中で関心を持ってくれる人とそうでない人といろいろいますけれど、展覧会においては企画者がターゲットを設けるべきではないと私は思っています。例えば、ホールの中ではなくて、極端な例を挙げると駅。駅の中に展示スペースがあって、毎日不特定多数の何千人、何万人、何十万人の通行者がいる中で、この展示スペースがあるのでそこで室伏展をやりなさいと言われたときにターゲットは設けられないです。別に文化的素用があるから関心を持つとは限らないし、例えばボディビルディングとかヨガとか身体表現に関わる活動をされている方がその展示を見て、全く違うところから室伏ワールドに入る可能性もあります。例えばミュージシャンであったり。それが予測できないのが展覧会の面白いところだと思います。メディウムとして割と開かれたものであって、一定期間の会場は一般公開されているから、もちろん入館料も会場にたどり着くまでのハードルはありますけれども、それを除くと基本的にメディウムとしては開かれたものなので、ターゲットを設けないほうが面白いと思います。
木原なぜ質問したかというと、最近美術館とかだと第4世代なんていう言い方があるかどうかあれですけれども、公民館モデルというふうにも言いましょうか、要するにいわゆる博物館的にいろいろなものを展示して、見に来て、そこで学んで帰るみたいなものからひとつの作品だけのために作られる美術館があったり、博物館があったり。今は八戸の美術館みたいにいろいろな人がそこに入って、そこでいろいろなワークショップをやったり、そこでいろいろ雑談する場だったりという、少し何かまた変わった美術館、ミュージアムのスタイルがあるような傾向があると思ったので、どのようなお考えかなと思って伺わせていただきました。
大澤これは話が逸れますけれど、私の意見にすぎないですけれど、今ある意味、戦後の前衛美術の一部に回帰しているようなところもあると思います。それは日常性を重視したアート界、ミュージアム界が、今、主流になりつつあると思いますが、その元をたどるとアンチ・アート(反芸術)やノン・アート(非芸術)を訴えていたアーティストたちの思想があります。ただしミュージアムがそれを安易に応用すると、簡単に言えば何でもアートになり得ることになります。例えば、今日、我々がここで話していて食事していて飲んでいること自体もアートであると主張する人たちがいるわけです。それでわざわざミュージアム会場の特設会場で、ただ飯食っているところに人を呼んで、それをひたすら鑑賞させて、もしくは参加させて、それを記録して、わざわざその記録をまた展示する方が多いですけれど、私からするとあれはくだらないものだと思います。アートとしてもつまらないし、食事としても非常に退屈なので、結局どっちつかずではないかと。ミュージアムが何でも受け入れられるのは面白いことですが、それを下手に解釈するというか、変な方向に解釈するとただ苦痛でしかない空間になり得ると思います。結局このような催し物をわざわざアートと呼ぶ必要を感じる人は、私生活において何か大きく欠落しているのではないかと。楽しく飯食っていたら、わざわざそれをアートと位置付ける必要はないと思います。
木原全く同意します。先ほどのミュージアムは教育というところがあまり強調されていっていなかったので、収集して研究して発信していくということで、教育とか学習、そういうことも確かに議論としてあると思います。その部分を少し拡大していくと今の話につながるかなと思って。
大澤実はこれは結構ややこしい話です。ICOM(国際博物館会議)という組織があります。世界中のミュージアム、美術館・博物館と呼ばれる施設、もしくはその類似施設の国際的な基準を設ける大きい国際大会があります。ICOMの総会が定期的に行われるんですが、その総会でミュージアムとは何かという定義が採用されます。それが当面のミュージアムのオフィシャルな定義。そして、これまではさまざまなバリエーションはあったんですけど、基本的にミュージアムは収蔵・研究・公開する施設であるという定義だった。割と無難な定義だったんですけれど。これはなかなか面白くて、この間の総会では、今般この緊迫した社会情勢の中でミュージアムはほかにもいろいろ役割を果たすべきであって新しい定義を出しますということで、さまざまな方々が長い間いろいろ議論されて、結局そこから出てきた定義が非常に面白いんです。あまりにも不透明というか、何を言っているのか全く分からないような文言だったので記憶できてないんですけれど、結局その基本機能といわれていた収蔵・研究・公開が消えて、いわゆるポリティカルコレクトな定義になったんですね。平和な社会の中であらゆる不平等な関係を解消するために、自由に、かつクリエイティブに誰もが参加して自己表現できるような場を作るのがミュージアムの本質であるという、非常にややこしい問題の多い定義が採用されたわけですが、それに反応した人が多く、結局いまだに決着ついていないと思います。最近ミュージアムの根本的な機能に関する理解があまりにも多様化しているというか、分裂しているというか、何のためにミュージアムがあるのかというのが分からなくなっている時代でもあります。その背景には、やはりミュージアムというのは基本的に帝国主義があってミュージアムができるものなので、つまり基本的にミュージアムは不公平な世界の中でできてきたものなんですね。それを今さら否定しても仕方なくて、なぜなら大富豪と権力者が不公平な社会構造の中で集めてきた物がミュージアムの原点にあるわけなので。それがいいとはもちろん言わないですし、今後は可能な範囲では是正するべきではないかと思います。しかしミュージアムの本質は否定しても仕方ない。
木原アーカイブの構築というのがミュージアムというものに対するアンチにもなり得ますね。多様な、先ほど言った10枚の中から1枚が選ばれたということでミュージアムができていたということも言えるわけです。ちょっと広げすぎていますけど。それが、むしろ10枚全部を語ろうとしてアーカイブするわけですね。
大澤それはミュージアムに取って代わるようなものにはならないですけど、ミュージアムはやはり希少性の神話を基に、一点物、もしくは貴重な物がそこに集約されるわけなので、それはそれでミュージアムとして残るわけですし、最近のアート界の現代美術の影響を見るとそれはますますもうミュージアムに集中しているわけですけれど、それとは別に最近の言葉を使うならリソースとして自由に、コモンズとかリソースとかそういう言葉が最近流行っていますけれど、自由に使える1つのある種の資源として提供されるのがアーカイブです。
木原ありがとうございます。
宇野そういう議論とか動きって、例えば日本のミュージアムでは?
大澤日本は独自のミュージアムの歴史を持っていると私は思っていますけれど、西欧中心の流行りを追っかけて今まだ参加型アートを提唱する人もいます。展示でジェンダーや人種差別などが取り上げられることが増えましたが、それはあくまで展示の内容であって、まだそこまでミュージアムの定義が社会問題になっていると思えません。そもそも日本においてどのようなミュージアムが在り得るかというのを考えるのは面白いです。簡単に言うと、日本では美術という言葉でも、工芸という言葉でもまだ新しい言葉で、明治にそのカテゴリーが成立して150年余りしかたっていないわけですし。その中で、そもそも会場という空間で美術を鑑賞する習慣がなかったわけなので、明治・大正期には床の間芸術なのか、会場芸術なのかという論争があったぐらいです。そもそも会場において芸術を鑑賞するという行為自体は、日本においては必ずしも自然というか、当たり前の行為ではないです。しかし戦後ホワイトキューブと呼ばれた、アメリカ由来の真っ白な抽象的なピュアな鑑賞空間としてのミュージアムが最近否定されるようになって、ほかにもさまざまな鑑賞方法があるのではないかという議論が広がっていく中で、日本は日本で例えば茶室、例えば床の間、例えば数寄屋建築、日本特有の鑑賞空間をまた再解釈してひとつの擬似的体験の場として改めて提供できるようになったとは思います。
宇野人に聞いた話ですけれど、友人がそこに参加してローマの国立の美術館で、しかしかなり変わった人が館長になってやったことは、ローマ中のかなり行き場のない難民を、美術館を難民の居場所にして、そこで難民をテーマの現代美術とかダンスとかいろいろなパフォーマンスとか全部そこに入れて展示というのか、パフォーマンス、そんな試みがあったと聞いています。数年前。
大澤それは知らなかったです。
質問者1すみません。質問いいですか。今回室伏さんのダンスをどういうふうにアーカイブ展にするかというテーマがあると思うんですけども、例えば溝端さんがやっていらっしゃるデジタルアーカイブと、それから過去の戦後のダンスからヒントを得てアーカイブから今の新しい作品を作るとかそういう試みはあるわけですが、今回ああいう場所が特定されていて何を展示するかといったときに教科書的じゃないものということを先ほどおっしゃいましたけど、それを実現するためにはどういう視点が必要でしょうか。例えば具体的に空間をデザインする人、それから舞踏とか、今回は室伏さんで室伏さんの舞踏をちゃんと理解している人、という二つの視点からそれをキュレーションする人というものに委託するとか、何かそういうことというのはやはり今までの場合はあったわけですよね。
大澤展示は誰でもできるといまだに思い込んでいる人がいますが、そうではありません。つまりデザインというのは知識も必要だし、技術も必要だし、センスも必要です。ただその物を額装して並べればいいというものではなくて、そこにはやはり長年の経験を基に身に付いた特殊なノウハウがあるわけで、そのデザイナー抜きで展覧会を開催するのは無謀なことだと思います。あまり良いものができないと思います。学芸員だけではなかなか厳しい。私も展覧会を実際に自分でデザインして設営したこともありますけれど、自信がないので、やはり毎回デザイナーに見てもらって、これでいいか、そして必要なところを直してもらった上で実施していました。そういう意味ではどんな会場であっても、道端の展覧会であってもミュージアムの展覧会でもホールの展覧会でも、学芸員というか、企画者とは別にデザイナーは必要だと思います。
 これはそもそもデザインとは何かという、難しい話に繋がります。デザインというのは装飾、つまり後から施される最後の装いだと思う人が多いです。しかしデザインというのは物の骨格を決める作業です。最も重要で原点にあるものであって、最後の装いというのはあくまでも基本的なデザインがあっての最後の飾りに過ぎないです。デザインという言葉の語源をたどってもそうですけど、その輪郭を定めるという意味の言葉から来ているわけで。さらに言うと、多くの場合は展覧会を企画するときに、もちろんまずは抽象的なアイデアがあって、こういうものをこういうアイデアの基に展示したら面白いだろうという発想はまずあるわけですけれど、早い段階からどの空間で展示するかをイメージして、それに落とし込む作業をできるだけ早くやります。つまり、どんなにいいアイデアがあってもその場に合わないアイデアだと成立しないので、やはり場所ありきで展覧会の企画をするべきだと思います。

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Infomation

一過性のパフォーマンスであるダンスは作品として残らない。記録技術が発達するにつれて、ダンス作品の保存に向けた網羅的な記録が試みられたものの、結局のところ、我々に残されるのはその周辺にある物質(告知物など)、映像(写真記録など)や証言(批評など)のみである。そのなかで、ダンスの記憶を呼び起こすために、展示という装置にはどのような可能性があるのか。 アーカイブ構築および展示企画の観点から「ダンスの展示」の可能性を問い直す。

講師
大澤啓
日時
7月12日(金)19:30〜
会場
室伏鴻アーカイブShy

Profile

大澤啓Kei Osawa

(東京大学総合研究博物館 特任研究員)
主な研究テーマは日本工芸論、戦後日本文化史、ジャズ・レコード史。
インターメディアテクをはじめ国内外のミュージアムにおいて、アートとサイエンスにまつわる展示を企画し、展示におけるアーカイブの積極的な活用を試みる。