Ko Murobushi Exhibition

Faux Pas/踏み外し

ウィーン、東京│2024 » 2026
2025.2.7
レクチャー

アーカイブ映像を通して

桜井圭介
《Edge》│2000/11/21│神楽坂 die platze│撮影:後藤治


桜井圭介レクチャーアーカイブ映像を通してについて
西本健吾

はじめに
生前、室伏鴻と交流のあったダンス批評の桜井圭介によるレクチャーが、2025年2月7日に「室伏鴻アーカイブShy」でおこなわれた。レクチャー時間はちょうど2時間(19:00開始)。観客は満員。真冬にもかかわらず熱気を感じさせる時間と空間だった。
 記録映像をみることに重点を置いたこのレクチャーでは、まず冒頭で《舞踏/その魂とすべての神経をこめて》(1998年, シアタートラム)をほぼ全編を視聴し、レクチャーの流れで《Edge》(2000年, 神楽坂die pratze)や《Heels 踵》(2004年, 麻布die pratze)ほかいくつかの作品の一部を視聴した。
 桜井のレクチャーのひとつの中心的な問いは、室伏の踊りは〈結局は男性性 Masculinityの誇示、(男性の)暴力性の発露なのか?〉という点にあった。男性性はレクチャー内で〈若さ〉とも言い換えられる。室伏のちからみなぎるような舞踏の男性性=若さは、土方巽の「衰弱体/老い」や大野一雄の「女装」と対比される。このレポートでは、桜井がこの問いにどのように応答したのかを、レクチャーの進行を組み替えるかたちで再構成する。ただし、この再構成は執筆者の個人的な関心と「面白い!」と思ったポイントによってなされていることを断っておきたい。なのでいくつかの論点は割愛されている。なお、レポートに登場する山括弧(〈 〉)で括られた語彙はレクチャー内で桜井が使用したものである。本稿はすべて敬称略とさせていただく。

フォルムのばかばかしい変形、時間の失調したジャドソン
桜井は室伏の身体を〈細い二対の鉄骨が弓なりになるような身体〉と評した。執筆者は室伏鴻について興味はありつつもあまり詳しく知らないままこのレクチャーに参加したのだが、この描写はまず室伏の踊りを捉えるための重要な補助線となった。
 湾曲する背中の異常なしなり、受け身を捨て重力にまかせるように倒れ落ちるムーブメント(背面から落ちる動きや頭部を床に叩きつけるような動きは、いったいどのようにして可能になっているのか?!)、ナンバ歩き(まさに二対の鉄骨)、撓み反り返る脚、足の甲をぐにゃりと外側に傾けながらの歩行、四つん這いの身体、隆起する肩甲骨、そして銀塗りの身体…。どれもが金属のイメージにおいてしめされる。そしてその金属的な身体を桜井は〈フォルム〉として抽出する。「フォルム=形」は運動から切り離された静止したイメージであり、金属的硬質さとあいまって強さと美しさ、「かっこよさ」を提示する。その象徴的なスチルイメージとして桜井が提示したのは、室伏が背中を丸め右方向にやや傾いた卵のような形で静止する写真だった。
 しかし桜井のレクチャーにおいて重要だったのは、硬い金属=強さが〈ばかばかしいもの〉になってしまう瞬間に着目していた点だろう。それは〈台無し〉・〈無駄に使うこと〉・〈無意味さ〉とも言い換えられた。その具体例としてまず桜井が挙げたのが、《Edge》にみられる室伏の「語り」のパフォーマンスである。踊りからシームレスに、しかし異質なものとしての語りに移行し、ふたたび踊りへと立ちかえる室伏のパフォーマンスにおいて、その語りは〈オヤジ〉的であった。ブツブツとぼやきのようなものを発する室伏の(ダメ)オヤジ性を、桜井は若さと強さを浪費する「ばかばかしさ」として提示する(ただし、個人的な印象としては室伏の怒鳴り声はちょっと怖い。暴力的にも感じる。その意味で疑問も残る。この点は後ほどもう一度振り返る)。
 「ばかばかしさ」は語りにのみ見いだされるわけではない。《Heels 踵》における室伏の下駄姿や室伏以外の出演者のハイヒール姿は、若々しさを台無しにする。あるいは13kgの真鍮板と懸命に〈格闘〉する室伏の姿は〈苦役〉のようでありながら(子どもの)〈戯れ〉のようであり、それは若さの無駄な消費としての「ばかばかしさ」をしめす。
 ここがこのレクチャーのポイントだろう。男性性の暴力が批判的に問い直される現代において、それを衰退させたり〈抑圧〉したり〈去勢〉したりすることの倫理が論じられるが、桜井が室伏にみたのは男性性を出力しつつそれを無意味化するという仕方だった。強いフォルムをばかばかしく使い、変形するという仕方だった。この視点は、現代の「男性」の踊りを考える上で重要な視点なのではないか。
さらに続けて、桜井は室伏の踊りと振付をジャドソン教会派の「タスク」の考え方に接続する。大きく口を開ける動き、真鍮板や柱・床との格闘といった身振りを〈即物的〉であると桜井は捉える。それはどこか冷静な身振りでもある。つまり、そこに感情の表現といったものは読み取れない。その意味で、スペクタクルを排した動きそのものを追求するジャドソン教会派に室伏は接近する、と桜井はいうのだ。ただ動きだけが出力される。ただしそれは無意味に出力される。いや、むしろ、即物的な仕方で動きが出力されるからこそ「ばかばかしいもの」に変形されるという視点が導かれる。
 ただし、ジャドソン教会派と室伏の差異をひとつあげるなら、室伏の動きは日常的ではない。日常性からのズレをもたらすもののひとつに、時間の失調がある。

遅いのに速い
先の鉄骨と金属の比喩は流体と個体双方の特徴を持つものとしての〈水銀〉のイメージを導く。それはゆるやかに流動する金属のイメージである。桜井はかつて室伏のある作品を《quick silver》と命名した。
 室伏の踊りは、基本的に「遅い」。にもかかわらず「速い」。この矛盾は、動きは遅いがしかし無数に微細な動きが折り込まれているということ(つまりただスローなわけではない)と、もうひとつ、遅さのなかに突発的に急激な速さがインサートされることに由来する。たとえば『舞踏/その魂とすべての神経をこめて』に登場する尻餅の動きは、重力に任せるように尾骶骨から落下するもので、急に速い。室伏の踊りには日常的な・通常のはやさがない。極端に遅いかつ/のに速い。通常の時間が失調している。この遅さと速さの共存や急激な切り替えを桜井は〈ギア・チェンジ〉と表現した。
また、個人的に印象に残っているのは、次の桜井の発言である。〈スローだとポーズが焼きつく〉。遅さはその極限としての静止を印象づける。その静止したポーズ=フォルムは「かっこいい」ものであると同時に「ばかばかしい」ものとして変形されるものでもある。
 そして驚くべきことに、ギア・チェンジとフォルムの変形という視点で室伏の踊りをみたあとに、通常の時間性のなかにある踊りをみると、ダンスを見る目が変わっていることに気づかされるのである。この気づきは以下の操作によってもたらされた。まず、桜井は室伏の踊りを早送りで見せた。桜井の言葉を借りれば、早送りされた室伏の踊りは〈普通にいいダンス〉になる。次に室伏の原体験であるとされる映画『ウェスト・サイド・ストーリー』(1961)のジョージ・チャキリスの映像が紹介された。そこで、わたしたちはジョージ・チャキリスの踊りをあたかも早送りされた室伏のようにみてみようとしてみる(もちろんそうは見えないのだけど)。するとジョージ・チャキリスの若くてフレッシュな踊りに「ばかばかしさ」が見えてくる、ような気がしてくる!少なくとも、いつもよりずっと、ジョージ・チャキリスの踊りが魅力的に見えたことは間違いがない。
 このことは何を意味しているのだろうか。「普通にいいダンス」を極度に圧縮しスローにする。これは矛盾しているようでもある。圧縮すると早送りになるはずだからである。しかし室伏の踊りは違う。スローな動きにその何倍もの時間で展開されるはずの無数の細かい動きが折り畳まれる。いわば1秒間のコマ数が増大する。すると、異常な密度でのフォルムの変形が起きる。なおかつ、スローであるがゆえにその密度がほぼ静止したフォルムとして目に焼きつく。このことを意識することは踊りを見る目をも鍛えるのではないか。それゆえに、ジョージ・チャキリスの踊りが魅力的に見えたのではないか。
 その最も極端な試みとして、桜井は静止した動きとしてのスチル写真を、動きを孕むものとして捉え、それを〈解凍〉するということを提唱する。例に挙げるのがエドワード・マイブリッジの連続写真である。連続写真は動きをコマに分割する。それぞれの写真は前後の動きを潜在的に自らのうちに折りたたんでいる。その前後の動きを一枚の写真から解凍すること。それは動きの零度としての「写真=フォルム」に「動き=〈生成変化〉」をみることでもある。室伏の踊りに「ばかばかしさ」を見る視点を備えたわたしたちは、もう室伏の写真を「かっこいい」動きとしては解凍できない。

室伏鴻、リサ・ライオン、マドンナ
桜井のレクチャーの重要な主張は、室伏の踊りが男性性=若さを出力しつつそれをばかばかしいものにする、という点にあった。それはフォルムへの着目が可能にするものでもあったのかもしれない。
レクチャーの終盤、桜井はさらに議論(あるいは空想)を展開する。それは、実験的な語りでもあり、おそらく本レクチャーでもっとも論争的でスリリングだった箇所である。
 桜井はふたたび室伏のスチル写真をしめし、それをボディビルダーのリサ・ライオンの写真とマドンナの写真集『S.E.X』のなかの1枚の写真と並べた。リサ・ライオンとマドンナに共通するのは〈筋骨隆々〉の鍛え上げられた身体と彫刻的でグレコローマン的な「美しさ」である。それらは〈女性らしからぬ女性の美しさ〉と形容される。つまり、女性性を出力しない。まず直感的にこれら3枚の写真はなんらかの点で共鳴していることが伝わってくる。モノクロ写真であること、肌の艶やかさなどその質的な類似性を指摘することもできるが、それだけではない。
 桜井は、室伏の写真をリサ・ライオンおよびマドンナの写真とほぼイコールのものとして提示する。ただし、ここには注意が必要だろう。後者においては女性が男性性を出力するのにたいして、前者すなわち室伏は女性性を出力するのではない。つまり、両者はイコールのものとして置かれるが、置き換えではない。室伏もまたリサ・ライオンやマドンナと同様、男性性を出力するのだが、それは無意味なものとなっている。つまりここで共通しているのは、規範的な美しさ=男性性を出力しつつもそれと対峙するという点にあるのだろう。
 桜井自身、〈説得性が薄い〉と語るこの仮説は確かにアクロバティックなものかもしれない。ただ、リサ・ライオンおよびマドンナと室伏を並べて語ることは、男性性をどのように批評的にあつかうのかという思考を後押しするものである。つまり、男性の身体で女性性を出力するという身振りは、ある意味で男性性という所与の暴力性を否定・去勢することになる。しかし、それは男性が踊る踊りとして、はたして暴力性への十分な批判になりえるのだろうか。なりえることもあるだろう。しかし、どれだけ去勢しようともその暴力性が回帰することもまたありえる(リベラルに振る舞う男性の権威性をわたしたちはさまざまな場面で目撃しているはずだ)。そうであれば、男性性=暴力性を引き受けながら、それを出力しながら、同時に無意味化するというのは、一種の「健全な」態度にもなりえるのかもしれない。
 先ほど紹介した室伏のダメオヤジ的語りは、父的権威性と怖さを備えている。それはこちらの体を硬直させる怖さがある。しかし、そうでなければならないのかもしれない。父的なものを出力するからこそ、それを無駄なものへと変形することができる。

おわりに
桜井のレクチャーのメモには、当日語られなかったキーワードとして「神的暴力」と「神話的暴力」という言葉があった。これは思想家のヴァルター・ベンヤミンが『暴力批判論』(1920/21)で用いた概念である。ベンヤミンは「神話的暴力」とは法を措定する暴力、すなわち秩序を構成する暴力であると説明する。それに対して「神的暴力」とは法を破壊する「純粋」な暴力である。両者はともに暴力である。桜井は室伏の男性性=暴力に男性性=暴力の破壊(無意味化)の可能性を見いだそうとしていた。これはかなり危うさを秘めてもいるだろう。両者の暴力の境界は容易に踏み越えられてしまうだろうし、その見極めもときに難しいかもしれない。
 まさにそれを示す事例として、2月27日、桜井は自身のFacebookにて、2019年にニュージーランドで起きたムスリムが集まるモスクでの銃乱射事件へのカウンターとしての「ハカ」と、LGBTQのパレードやパレスチナ連帯デモへの攻撃としての「ハカ」を比較して紹介している。マオリのWar Danceであり本来「攻撃性」を帯びた「ハカ」は、暴力性の表現が状況や対象によってその意味を変えることの例として示されている。
 このレクチャーは室伏の踊りを、暴力の不安定さの、その「際(Edge)」にたつものとして、現代の「男性性=暴力」批判の踊りとして読み解こうとする試みであった。


西本健吾
パフォーマンス・ユニット「チーム・チープロ」共同主宰。チーム・チープロでは身体や身振りの批評性をテーマとした舞台作品の制作を行う。近年の作品に『皇居ランニングマン』(2019-2020、ラボ20#22参加)、『京都イマジナリー・ワルツ』(KYOTO EXPERIMENT 2021 AUTUMN)、『女人四股ダンス』(KYOTO EXPERIMENT 2022)、『nanako by nanako』(2024)などがある。2024年からチーム・チープロと桜井圭介によるニューダンス研究会を立ち上げ。2025年5月にはニューダンス研究会としてDance Base Yokohamaでレジデンス予定。
WEB: https://www.chiipro.net/

Infomation

室伏鴻が日本をベースに活動を再開した2000年代から、オーガナイザーとして、評論家として、また友人として深く関わった桜井圭介氏によるレクチャーです。桜井氏が抜粋した映像を観ながら、ダンサー室伏を楽しんでいければと思います。

講師
桜井圭介
日時
2月7日(金)19:00〜
会場
室伏鴻アーカイブShy

Profile

桜井圭介Keisuke Sakurai

音楽家・ダンス批評。吾妻橋ダンスクロッシング主宰。三鷹SCOOL共同代表。