禁止、欲望、違反──〈外〉への踏み外し
「アンチ・ダンス」、「無為のコレオグラフィ=ダンスの脱作品化」から「踏み外し」へ?
きょうはわたしだけ、『アンチ・ダンス──無為のコレオグラフィ』(水声社、2024年)に寄稿していないので、外からの立場としてどのようなことを考えたのか、どのような印象をもっているのか、そういう応答がまずは求められているのだと思います。そして「アンチ・ダンス」を経ての「踏み外し(Faux pas)」という今回の一連の企画のタイトルが、わたしが研究しているフランスの作家、批評家であるモーリス・ブランショの書名と同じであり(室伏さんももちろんそのことを知っていました)、この「踏み外し」というのがブランショにおいてはどのような言葉だったのかを、お話ししたいと思っております。
竹重さんと越智さんの話を聞いていて、アンチ・ダンスが終わらないことそのものを体感したような場面がたくさんありました。ブランショの主著に1969年に出た『終わりなき対話』というものがあります。フランス語だとL’Entretien infiniと題されていて、英語だとThe Infinite conversation、「終わらない会話」です。おしゃべりですね。「対話(dialogue)」というよりは「会話(conversation)」に近い。フランス語のentretienは、間を保つという、かなりエンターテインメントに近い側面がある言葉。ブランショという人は、ずっとなにか結論を出すとか、明快な論理的な秩序立てたものによってなにかを証明することから反対のところに行こうとする実践をしていた。ですので、思いがけない形で今回『アンチ・ダンス』の副題には、「無為」というブランショの本当にキーワードのひとつが入っていて、先ほど越智さんや竹重さんの話でもありましたけど、原語のdésœuvrementは、日本語だと無為とか脱作品化と訳されていて、「作品(œuvre)」から逃れるというか「作品(œuvre)」に至らないという意味があり、ブランショが完成であるとか、これで終わりというところに至らないようにしていたことと連動するような熱気を感じながら、いまここにおります。
わたしがこの論集を読んで一番感じたこと、そしていまも考え続けていることは素朴かもしれませんがシンプルで、きょうお配りした資料の最初のところにも書きましたが、なぜ「ダンス」という言葉がそれでもなお使われているのかということです。越智さんの話を伺って、「ノン・ダンス」という流れがあったこと、正当とされる伝統的で規範的な、正典として収集されたさまざまな「パ(pas)」というフォーメーション=コレオグラフィからの逸脱を試みた流れがあったと教えていただいた。室伏さんを分類するというのはなかなかしがたいし、分類はしたくないですが、しかそういうなにか逸脱の流れがあるということがはじめてわかりはじめてきた。
なぜ「ダンス」という言葉が手放されていないのか。「ノン・ダンス」にせよ「アンチ・ダンス」にせよ、なぜ「ダンス」という言葉を使わずにいられないのか。そのことが気になり、決定的に本質的な問題だと思いました。ブランショは一貫して、作家が言語を用いて書くことそのものを思考し、それがなにか単純に作品になるようなこととは異なる次元を考えていた。書きながら書けないこと、書くことの不可能性や、作品というひとつの完成に至ることが必ずしもない営為について考えていた。これと関連しては、『アンチ・ダンス』の序文で宇野先生が書かれていることが象徴的なので、いちばん最後の部分を引用したいと思います。「ダンサーにとって、こんなことを考えて踊ることは難しくなる一方かもしれない。しかし「踊れないを踊る」、そういう踊りだってあってよいだろう。よくなくても踊るしかない。そのように書くことだって、あってよいだろう。書けないことを書くしかない。考えられないこと自体を考えることしかない。こうして無為とはもはやダンスの問題をはるかに逸脱しているが、ほかでもなくダンスが、そのような逸脱を私たちにうながしてきたのだ」(22頁)。「踊れないを踊る」というのが、おそらくは、なおも「ダンス」の言葉が手放されないひとつの理由かと思います。そして書けないということを書くというのはまさにブランショの問題であり、それは「ダンス」という言葉がなおも放棄されないことと強く通じており、他のジャンルにも通底する問題なのだと思います。
それからもうひとつは、(これはわたしの前のお二人の発表で具体的な事例に即した問題提起がありましたが)ダンスの時間と空間とはどのような特徴を持っているのだろうかということです。つまりわたしたちがダンスを鑑賞するとき、ダンスを見ているとき、それでは いったいなにを見ているのか、経験しているのかということが、じつははっきりしていないのではないかということです。それは、ダンスが上演されたときに、あるいはそのあとになにが残るのか、ということともつながっています。
『アンチ・ダンス』では、多かれ少なかれ、室伏さんと彼の「作品」への言及があり分析さえもありますが、大前提として、いま、もう生の室伏さんのパフォーマンスをみることは不可能である。もちろん実際に室伏さんが生きていたときに、舞台を見たことがあるとか、会ったことがあるとか、そういう方々もいらっしゃるのですが、現時点で、生きた作品、動き、身体を見ることは不可能になっている。すると、残されたものにもとづいて、彼のダンスや踊りについて、わたしたちは語ることになる。じっさい、『アンチ・ダンス』でも、映像をはじめとする記録にもとづいた分析がある。ではそれは、「ダンス」を見たことになるのか。それとも「ダンスの映像」、「ダンスの記録写真」を見たことになるのか。いったいどこにダンスがあるのかということまで問われてしまう。そのような根源的な問題を頂戴しているように感じております。そうすると残っている映像だったり、写真だったり、そういうものでしか辿れない、つまりそのまま展示することはできない、しかしそのようなダンスを展示するということに、今回の「faux pas」というプロジェクトは向かっていきますので、いったいダンス、あるいはアンチ・ダンスというものにおいて、時間と空間というのがどうなっていて、それを観賞するというか見るとき、いったいなにをわたしたちは見ていることになるのか、そしていたいなにが残るんだろうかと、大きな問いかもしれませんが、そういうことを考えました。
モーリス・ブランショにおける「パ(pas)」の問題
ブランショにとっての「踏み外し」の問題というか、「パ」の問題について、お話するのですが、そもそもとして、フランス語で「パ(pas)」というのは、非常に日常的で馴染みのある単語だということを確認したいです。しかも重要なのは「一歩(pas)」を意味すると同時に、否定文をつくるときに英語でいうところのnotとセットで用いられる「〜ではない(ne pas)」という否定の響きを持っているということです。そしてfaux pasというのは、英語でもそのままのスペルで使われていて、社会的な非礼、やってはいけないことをやる意味があります。なによりも「〜してはならない(il ne faut pas)」という禁止を述べる際に必ず使う言葉ですので、フランス語で「フォ・パ」という音を聞くと、「踏み外し」と同時に、「〜してはならない」という禁止の命令が聞こえてくる。
1907年に生まれて2003年に亡くなったブランショの、最初の評論集が、『踏み外し』(Faux pas, 1943)です。1941年から1944年にJournal des débats紙という新聞にブランショは書評を連載していたのですが、そこから、ガリマール社と縁が深く、デュラスの恋人であったディオニス・マスコロの取り計らいで、単行本化に至りました。「不安から言語へ」、「詩についての脱線」、「小説についての脱線」、「とりとめのない脱線」の4部構成で55本が収録されています。研究者のあいだで知られている事柄としては、もともとのタイトルは「Digression(脱線、余談)」の予定でしたが、ブランショの意思で「踏み外し(faux pas)」へ変更されているということ、『踏み外し』本文には一度も「踏み外し(faux pas)」 の語は現れないということ、単行本には未収録のJournal des débats紙掲載の論考では1941年に1回、1942年に2回使用例があるということです(Cf . Christophe Bident, Maurice Blanchot. Partenaire invisible, 1998)。むしろこの言葉をめぐって大切なのは、後年、『彼方への一歩』(Le Pas au-delà, 1973)に一度だけ、「踏み外し」の語が現れるということだと思います。このあたりのこと、とりわけブランショにおける「パ」や歩行の問題系については、デリダのブランショ論に詳しいのですが(Cf. Jacques Derrida, « Pas », in Parages, 1986)、ほとんど最後の時期に属する『彼方への一歩』においては、はっきりと、「欲望(désir)」が「踏み外し(le faux pas)」に言い換えられていることが重要だと思います。該当箇所はつぎのようなものです。
法の循環とはつぎのようなものだ。つまり境界があるためには乗り越えがあることが必要であり、しかし境界だけが、乗り越えられないものとして、乗り越えを要請し、予見できない運動によって、つねにすでに線を乗り越えている欲望(踏み外し)を肯定する。
Le cercle de la loi est celui-ci : il faut qu’il y ait franchissement pour qu’il y ait limite, mais seule la limite, en tant qu’infranchissable, appelle à franchir, affirme le désir (le faux pas) qui a toujours déjà, par le mouvement imprévisible, franchi la ligne. (38)
このように、欲望=踏み外しを、乗り越えてはいけないとされる境界自体が肯定しているのだ、という姿勢がブランショにはある。
それで、『踏み外し』に戻りたいと思います。1943年に単行本化される際に、一番冒頭に、書き下ろしとして「不安から言語へ」というテクストがつけくわえられています。非常に抽象的なこのテクストにおいて一貫して語られるのは、書けないといいながら書いている作家のジレンマです。たとえば「わたしにはなにも言うことがない(Je n’ai rien à dire)」と言っても、言葉を使用してしまっている両義性から逃れられない苦悩が、語られています。そして作家にかぎらず、芸術家による作品制作にも通じる記述があり、こんなことも書かれています。
「かれがつくる作品はつくられた作品がないことを意味する。(…)作品はなんの役にも立たないのか?と批評家は言う。しかし作品はまさになんの役にも立たないことによってなにかの役に立つ」
L’œuvre qu’il fait signifie qu’il n’y a pas d’œuvre fait. (…) Elle ne sert à rien ? disent les critiques ; mais elle sert à quelque chose justement parce qu’elle ne sert à rien. (13)
最後はバルザックの『知られざる傑作』における画家フレーンホーフェルの言葉「なにもない、なにも!けっきょく、なにもない(Rien, rien ! Enfin, il n’y a rien)」で閉じられており、まだ「無為(désœuvrement)」の語は現れていませんが、その萌芽と言える思考がすでにあるといってよく、最初に確認をしたような、『アンチ・ダンス』における「踊れないを踊る」と強く響きあうものがブランショの『踏み外し』にはある。
1.「不安から言語へ」における半身不随者の歩行と歩行困難
そうしたなか、室伏さんが、最後のソロ作品のタイトルとして「Faux Pas(踏み外し)」を選ぶほどだったことからは、ブランショの『踏み外し』じたいを、なにかダンスとその身体性と結んで読めるような気がしてくる。すると書き下ろしで収録されたテクスト「不安から言語へ」のうちに、作家が書けないと言いながら書いてしまっているアンビバレントな苦悩が、半身不随者、身体の片側が麻痺してしまった人の歩行の問題として語られている箇所に目がいくようになる。こんな記述があります。
彼〔作家〕のうちで言語が破壊されているということはまた、言語を使わなければならないということである。歩く義務と禁止を同じ病に見つけ出す半身不随者のようだ。動くたびごとに動きを奪われていることを証明するために、たえず走ることが強いられている。手足が従えば従うほど、彼はいっそう麻痺する。この健康な脚、たくましい筋肉、そこから引き出される満足ゆく運動によって、彼の歩行の不可能性を証明し引き起こしているという恐怖に苛まれている。
Ce qui fait que le langage est détruit en lui fait aussi qu’il doit se servir du langage. Il est comme un hémiplégique qui trouverait dans le même mal l’obligation et l’interdiction de marcher. Il lui est imposé de courir sans cesse pour vérifier à chaque mouvement qu’il est privé de mouvement. Il est d’autant plus paralysé que ses membres lui obéissent. Il souffre de cette horreur qui de ses jambes saines, de ses muscles vigoureux et de l’exercice satisfaisant qu’il en tire fait la preuve et la cause de l’impossibilité de sa démarche. (10)
すでに先ほど、『彼方への一歩』では、境界の乗り越え、踏み越えという違反行為が、欲望として肯定されていた点をみましたが、欲望という、抽象的ながらもきわめて人間の身体的な要素の喚起は、この「不安から言語へ」においても、まさに歩行と結びつくかたちで書かれていたということは、ダンスとしての「踏み外し」を考える上でも、大切になってくるのではないか。
2.『友愛』(L’Amitié, 1972)収録の「違反についてのノート」における「彼方への一歩」概念
それからもうひとつ、1972年に刊行された『友愛』(L’Amitié, 1972)に収録された、「違反についてのノート」というテクストにおいて、翌年刊行される『彼方への一歩』のタイトルが忍び込まされている、というところに着目してみたいと思います。直接関連のあるところだけ、読みます。
〈レシ〉を通過するのはレシだけであり、それは〈時間〉にかつていちども属したことのない過去の印であり、そして(こう言えるだろうか?)あの「彼方への一歩」への呼びかけなのだ、そこへ向かって、反発によって、違反できない=踏み越えられないにもかかわらず命名可能な〈外〉が誘引する。
Par le Récit passe donc seulement le récit, marque d’un passé qui n’a jamais appartenu au Temps et (peut-on le dire ?) appel à ce « pas au-delà » vers lequel attire, par la répulsion, le Dehors intransgressible et cependant nommable. (212)
「レシ」というのは物語とか叙事詩とか、歴史的とも神話的とも言える様々な出来事や人物名を次々と並べ立ててゆくことで、しかしそのような「レシ」の語りには、必ず起源の問題が出てくる。つまり、では最初のはじまりは?となると、それは語られようがないわけです。すなわち、時間的なつらなり、時間には決して属したことがないはじまりの一点があり、それ以後の語りには、すべてその印が刻印されている……。このように言った上で、ブランショはそれが「彼方への一歩」への呼びかけなのだと言っている。このとき、〈外〉はあきらかに、踏み外して踏み越える一線、向こう側であるということがわかります。
以上のように、 ブランショのテクストそのものにおいても、じつは、踏み越え、乗り越え、歩行といった、具体的な身体(運動)と空間(イメージ)が、『踏み外し』はもとより、この「踏み外し」概念と近接する著作に、1943年から 30年が経つ1973年に至っても、描かれている。それも極めて禁断的な禁止を破り違反する欲望とともに描かれている。この時期のブランショは、ほとんど断片的なものしか書かなくなっているので、これがいったいどういう具体的な主張であるのかを捉えることは難しいですが、ブランショにおける「踏み外し」が、1970年代に至って、「欲望」と結ばれるというところからは、あきらかにやってはいけないものとしての「踏み外し」に対する断続的な意識があったことが読み取れます。
〈外〉に踏み外すために
1.室伏鴻集成より
つづいてみてゆきたいのは、室伏さん自身、「踏み外し(faux pas)」という言葉を、かなり早い時期から、断続的に用いていたということです。すべてではないですが、まず『室伏鴻集成』(河出書房新社、2018年)から、いくつか抜粋したいと思います。
もともと踊りは、天国と地獄の境目の勾配にあって、どっちにもつかぬ途中の徘徊である。〈よろめき、faux Pas〉。こっちからみれば、片足あっちへ踏み外し、あっちからみれば、未だ片足こっちに踏みとどまって、どうにも格好が定まらぬ様に、揺らいでいるような、無垢で無謀な生きものが踊りをするものの姿態であろうか。(96)
同じように一つの歩行が選ばれるのは他の歩行の排除によっていた、とすれば歩くことは排除された他の歩行を探す歩行になるだろう。それはあらたに踏み外し踏み迷う歩行を生みだす。そうしてさらにいくつもの他の歩行が私の歩行を横切る。私の足はもつれる。よじれてからまる足になる。私は他に翻弄され、私が他を妨害する。私は、突っ立ったまんまで歩かれている〈外〉の歩行となる。と言うより、私は歩かないのに、誰かが私を歩いているのだ。(240)
唖になるために語らねばならぬ、盲いになるために見るのだ。聾になるために聞くのでなければならない。歩くこと、それは行方をくらますこと、行方不明になること、踏み外し、逸脱することなのだ。肉体とはなにか? 声を失って倒れる私だ。(私の)死体、(私の)他者のほうへ身を投げかける私。立ち上がる死体に交わる、亡霊=未知の記憶である。肉体、それは私の死体だ。(243)
さいごに、恋愛はすべての倒錯と錯乱と錯誤……未だ名のない、非-名の人格、〈狂気〉、踏み外し—Faux pas、血迷いと彷徨い、野良犬、野犬のような飢えと乾き、/そして、失語の、吃音の経験、窒息する息の体験、硬直して、途絶えた沈黙の言語、故国から外れ、喪失した母語によって語られた彷徨う孤児の言語であるだろう。(344)
室伏さんの場合、「踏み外し」もFaux pasも両方使われていて、特徴としては、踏み迷いとか、彷徨するイメージと共に用いられているのが印象的です。
2.未収録の日記等より
また、『室伏鴻集成』には未収録の日記群にも、たとえばつぎのように、「踏み外し」という言葉がしっかり出てくる。
「舞踏」とその踏み外し/舞踏/その踏み外しに於て舞踏者であること(1985年)
projections. 互いの投影. 影線によって主体の流出を図ること. 交じり合い そして接ぎ合わせ. いくつもの交錯するdimensionへの積極的な〈倒錯〉と踏み外し. そこまでいけば. しめたものだ. ああ. 愉快な逸脱./疲労に身をまかせながら気まぐれを失わぬこと. それが偶然の光明を我が身の必然のようによびよせるはたらきだ. (1987年3月17日)
昨日ではなく今・ここに踏み外すこと Faux Pas/それが歩きつづけると言うことだ(1987年3月16日)
私は私を破壊しようと思う。同時にあなたの生を刷新しようとするのだ。/それは瞬間のうちにある/それは瞬間を生き瞬間を死ぬことである/それは投身する投身自殺に似ている/それは骰子一擲の、賭けに似ている/Un Coup de donであるだろう/Un coup de don!/それは賭けなのである/そして更に「白日の狂気」へと身をさらすこと/Faux pas 「踏み外し」へと(2012年11月29日)
ここでもやはり、倒錯や逸脱と結ばれて、「踏み外し」とFaux Pasの語が用いられている。室伏さんが生きていたころは、まだ『終わりなき対話』(L’Entretien infini, 1969)の日本語訳は出ておらず、『友愛』と『彼方への一歩』については、いまなお日本語訳がありません。ですから、ブランショにおいて、「踏み外し」が「欲望」の言い換えになっていて、といったことは彼は読んでいないはずです。それにもかかわらず、ブランショが若い頃から老年に至るまでずっと追求をしていた、踏み外し=欲望=違反の問題系の本質を、室伏さんはつかんでいた。そのような心地がします。
すこしだけ、思いついたことをお話しして終わります。まず、海について。今回の『アンチ・ダンス』には、対談や論文など、多岐にわたるテクストが収録されているのですが、最初の方に、室伏鴻さん自身のテクストもまた収録されている。そこには、「海」についての記述がある。たとえば、「私は 海のように踊りたいと思う」(29)という言葉が出てくる。ブランショにおいて、じつは「海」というテーマは、汲み尽くしきれないほど大きく、デリダのブランショ論集のタイトルであるParagesは海域を意味していて、海からはじまり海に終わる『謎のトマ』をはじめ、海がある。具体的にどこの海というわけではありませんが、海のイメージは鮮明です。それで『彼方への一歩』の本当の最初のところにも、こんな不思議な謎めいた一文がある。
どこからやってくるのだろう、根こそぎにし、破壊し、あるいは変化させるこの力は? 空に向かって書かれた最初の言葉、空の孤独、それじたい未来なく衒いなき言葉、「かれ──海」のどこからやってくるのだろう?
D’où vient cela, cette puissance d’arrachement, de destruction ou de changement, dans les premiers mots écrits face au ciel, dans la solitude du ciel, mots par eux-mêmes sans avenir et sans prétention: « il—la mer » ? (Le Pas au-delà, 8)
室伏さんにとっての海を、踏み外しとともに、〈外〉と共に考えることもまた可能になるのではないか。「違反」と訳しているtransgressionは、陸地への海の侵食を意味する言葉でもあるので、その辺りも一緒に考えて、踏み外しの物理的な意味をもっと拡張してもっと広くとらえられるのかもしれない。
それからもうひとつは、外と中について。おなじく『アンチ・ダンス』に収録された室伏さんの言葉に、「私は、ダンスの外は、ダンスの内にしかない、と思っているのであろう」(35)という一文がありますが、この外部と内部の関連というか、外部が中にあるというのは、ちょうどきょう竹重さんのお話で、フーコーの「外の思考」における、言葉として、呼気をもって内部から出てきたものが、自分の「外」なのだ、というお話ともつながるのですが、まさにブランショも内部にある外の話をしていて、『彼方への一歩』にも、たとえば「時間のうちにある時間の外」« hors temps dans le temps » (Le Pas au-delà, 8)といった表現があることを、共有しておきます。
あとは、忘却による想起について。これは、ブランショの『災厄のエクリチュール』からの引用ですが、こんな文章があります。
災厄は忘却の傍にある。記憶なき忘却、痕跡づけられなかったものの不動の退隠。おそらくは記憶できないほど遠く太古のもの。忘却によって想起すること、再び、外。
Le désastre est du côté de l’oubli; l’oubli sans mémoire, le retrait immobile de ce qui n’a pas été tracé– l’immémorial peut-être; se souvenir par oubli, le dehors à nouveau. (L’Écriture du désastre, 10)
きょう最初に、わたしたちがダンスをみているとき、いったいなにを見ているのか、なにが残っているのかと問いかけましたが、そのとき確実に記録だけでなく記憶もまた問題になっているので、「忘却による想起」という考えがブランショにあることを思ってみるのはおもしろいのではないかと思います。
Infomation
Shyでの討議から成立した論集『アンチ・ダンス』を踏み台に、それを「踏みはずす」思想のダンスを追求します。ドゥルーズ生誕99年でもあり、室伏鴻の愛読したドゥルーズにちなむ語り、対話が続きます
日時
11月16日(土) 16:00〜
会場
室伏鴻アーカイブShy
Profile
髙山花子
Hanako Takayama髙山花子 東京大学東アジア藝文書院(EAA)特任講師。専門はフランス思想。著書に『鳥の歌、テクストの森』(春秋社、2022年)、『モーリス・ブランショ——レシの思想』(水声社、2021年)、訳書にジャック・ランシエール『詩の畝』(法政大学出版局、2024年)がある。