「ダンスあるいは踏み外し」 宇野邦⼀
ダンスは測り知れない。ダンスだけではないが、ダンスに固有の、何か測りがたいものがある。それゆえ測り知れないものとしてダンスを生き、考え、追求する踊り手たちがいる。それはまた踊る身体が、測り知れないものだということでもある。ただ一個の身体が踊っているのではなく、同時にそこに感覚や記憶や思考が入り乱れて踊っているとすれば、それらの一つ一つも、全体も、測り知れないということである。
踊り手はダンス自体を問いながら踊るだろう。しかしダンス自体というものがあるかどうか確かではない。ダンスはそれ以外のものに開かれ、連結されているからだ。この果てしない世界、社会にも自然にも、人間にも生活にも、無数の生命や物にも浸透されている。室伏鴻はそれらすべてを相手にして踊りを追求しながら、踊り続けた。踊りはあまりに世界に向けて開いているので果てしなく、決して達成されることはないまま、追求されるしかない。「このトリトメのなさは、なんなのだろう?」と独語しながら彼はそれを続けた。
室伏は、ダンスと言葉のあいだを、おびただしく往復した。ダンスと言葉のあいだに激しい衝突、貫入、溶融、緊張が持続していたようだ。土方巽から、直接、間接に受けた影響を、彼は反芻し、吟味し、診断し続けた。
土方の舞踏の創造は、早くから独自の機敏な詩的思考とともにあった。ダンスと言語の間に起きた交差(キアスム)の目覚ましい例としては、土方も着目していたニジンスキーのバレーと手記という例が浮かんでくるが、舞台に立つことをやめてからも『病める舞姫』という本に注がれた言語的創造は、舞踏の生成にとって不可欠の要素だったのだ。土方が鍛え上げた言葉は、そのまま舞踏の身体を追求し発見する過程であり、それはダンスの説明でも理論でもなく、台本でもシノプシスでもなく、作業ノートでもなく、舞踊家の回想録でもなかった。大野一雄、笠井叡の創造もその例外ではなく、しばしば舞踏は、それ自体がダンスでもある言語の、意味を貫通する濃密な振動や力線に密着して実現されたのだ。その点でも際立っていたのは土方巽であり、ただ彼一人に属する舞踏‐言語の生成過程が確かにあった。
室伏鴻は、土方のこの言語行為にも敏感に反応しながら、土方の創造の核にある思考を受け止めようとした。土方自身が室伏の追求に応答し、その進路を「苛烈な無為」と形容する美しい一文(「木乃伊の舞踏―室伏鴻」)を寄せていた。
それなら、土方にも室伏にも深く関与するらしいこの「無為」とは何か。「舞踏」にとって無為とは何か。それはダンスの「測り知れなさ」を突きぬける強靭な無意味なのではないか。
すでにこの追求のエッセンスを収めた『室伏鴻集成』や、公開されたアーカイブ中のテクストなどの他にも、まだ未公開の室伏の手記が残されている。それらの中で彼は、既成のダンス、あるいはみずからのダンス自体にも、しばしば強度の否定を向け、ダンスに死刑宣告するようにして、そのつど蘇生の道をさぐっている。「舞踏」に触発されてきたモチーフを決して棄ててはいなかったが、その無為のダンスは、あらゆる形式をかなぐりすてていた。マテリアル、分子、溶けること、崩れること、外れること……がつねに追求されている。
ブランショの言葉Faux-pas(踏み外し)が、一つの合言葉のようになった。ダンスのパ(ステップ)を逸脱すること、転倒し脱臼すること、そして死に損なうこと。土方の「舞踏とは突っ立った死体」という言葉はあまりにも有名になったが、決してそれは死者の舞踏(ダンス・マカーブル)のことではない。それは生きた死体 の踊りであり、死体になる踊り、反実現の踊りなのだ。
初期の室伏の発想は暴力的である。「忍耐をこえる痛み、陶酔は、私を喪失させる。無我の、呆気の境にあるのもまた、舞踏の祖である。/私は私を舞踏場に殺害する。が私は不死であり甦るものだ」。しかしその発想を保ちながら、長くダンサーたちと協働する中で、常軌を逸脱する身振り、状態、変化に微細な注意をむけるレッスンを繰り返し、ダンスの無為を追求し続けた。
測り知れない、果てしないダンスを追求するとは、またさまざまな限界(「存在の際、縁、隅、鄙……」)を知覚し、吟味し、体験し、ときには通り過ぎることでもある。そもそも身体の能力は有限にちがいないが、身体は果てしないものでもある。身体の形態も力も、はてしない変化、様態をくぐりぬけていくからである。たった一つの身振りの線も、いくつもの方向と分岐と振動をはらんでいる。ある痙攣の状態から、別の動態に移っていくとき、室伏のゆるやかな身振りから、いくつもの切子面がきらめき出るような瞬間を見たことがある。
この探求の軌跡を展示する試みは、有限の場所を果てしないものに開く実験となるはずだ。それと同時に《限界》の意味自体が変わらなければならないだろう。
read more 「持続する身体―室伏鴻と再会して」 細川周平
銀に塗ったひきしまったほぼ全裸の肉体が木立の間から現れるや否や、好奇心に満ちた人だかりがその不思議な物質のあたりにさっと集まる。室伏鴻はもう踊り始めている。しなやかな上体を豹のようにむちうたせながら。爪先立ちになったかと思うと、しゃがみこみながら。飛びはねるかと思うと、地べたに転がりまわりながら。初めてアンヨができるようになった赤ん坊のように、よたよたと走りながら。ぐるぐると独楽のように回って、世界が逆回転する幻惑に溺れながら。彼が動くにつれて観客も動く。ただし半径二メートルほどの円は崩さずに。これ以上接近すると「あぶない」と本能的に察知した距離、それがこの暗黙の円陣を決めている。
そのうち当惑する観客を後ろに残して、三メートルもある深い穴に飛び込んだ。まるで罠にかかった獣のように、四メートル四方の穴の底でのたうちまわり。土の壁に体当たりし、つる草を手がかりによじのぼろうとし、絶望のあまり奇声を発す。ひざまづいて聖なる場所にたどりついたり、自らを鞭打って罪を肩代わりしてくれたキリストに祈る狂信者のように、自虐的なしぐさはさらに激しくなる。そのうち肩口が切れて赤い血が白い肌に滲みだす。もはや化粧は無残にはげ落ちている。汗がやや丸い背中を岩盤からにじみ出る清水のように流れだし、体の半分は泥にまみれ、息使いが穴のへりを囲んで見下ろしている観客にじかに聞こえてくる。
両腕を耳にそって上に伸ばし、何かをつかむように掌を構え、その掌で体全体を引っ張っていくように爪先立ちにいたるまで体のベクトルを上へ向ける。その刹那の丸まった背中の線を見て、一五年前の記憶が蘇ってきた。一九八三年から翌年にかけて。私はこれと同じ曲線を何度も見てきたのだ。ニームの市立小劇場の客席、ローマの野外劇場の舞台の袖、モデナの市立文化センター、ボローニャの郊外劇場…。解剖学的な曲線といったらよいかもしれない。どのように骨の回りに筋肉がつき、皮膚がかぶさり、「背中」と総称されている細長い部分を形成しているのか、はっきり示すような動き。頭を剃り上げているため、背中と首筋と後頭部はまるで一つの伸縮自在の生き物のように見える。背中が表情を持つ希有なダンサーは、ワークショップではこの伸び上がる身振りを「獣のポーズ」と呼んでいた。形を模倣するのではなく、自分のなかの獣の部分を外にひき出すこと、こう彼は生徒に説明していた。中には吠えだす者もいた。これが「ガラスの動物園」という名のパリのダンス・レッスン場での出来事だった。
そのころ私は彼のパリのアパートに転がりこみ、フランス国内やイタリア、ベルギーへ通訳と称して旅をし、彼の舞台やワークショップをつぶさに観察した。移動が生活の一部になり、ダンスが日々の話題だった。ワークショップの生徒やパフォーマンスの観客と話し、彼らが室伏に見た鍛錬の力、バレエを始めとする西洋のダンスとは異なるリズムやバランスのありかた、そして未知なる国から突如現れた舞踏に対する大きな期待といくぶんかの異国趣味を知った。たいていの生徒にとって、彼は初めて身近に見る日本人だった。彼らの歓待は、舞踏が日本ではほとんど居場所のない「アングラ」とは違って、新しいパフォーミング・アーツのひとつであると認められていたことを語っていた。山海塾、室伏の深く関わっていたアリアドーネの会、田中泯、大野一雄らが、ヨーロッパに知られるようになってまもないころの話である。それから十五年、日本では舞踏は相変わらず「海外で高く評価されている前衛ダンス」という域からそれほど出ていない。ヨーロッパならば二十都市をツアーすることもできるダンサーやカンパニーでさえ、日本では踊る場所がない。私が十年以上も旧友の踊る姿を目撃することができなかったのは、もちろん彼を避けていたからではないし、室伏も好き好んでヨーロッパや中南米を選んで仕事してきたわけではない。日本では理解ある劇場やフェスティバルにめぐりあうことがなかったのだ。だから一九九八年白州アート・フェスティバルに登場した彼と出会えたのは、僥倖と呼ぶべき出来事だった。
「Help! 出してくれ」と穴の下から彼が呼ぶと観客がどっとわく。息をつめて彼の背中を見ていた観客の気持にぽっかりと空白が生まれ、はりつめた緊張が解ける。我に帰ったような一人が手を差し延べる。彼は再び「地上」に戻ってくる。それから後、彼のからだからはユーモアが漂い、彼が笑いだすと(それが計算された演技なのか、踊っているのに飽きたからなのかわからない)回りもつられて笑いだし、放蕩息子の帰還を祝福する宴のようなはなやいだ気分に人々は浸った。「サウンド」「鳴ってるよ」酔っぱらいが手踊りをしながらわめき散らしているかのような印象だ。それはフェスティバルの最後のプログラムだったから、余計、観客の気持はゆるくなった。そして急に観客におじぎをした。構成されたパフォーマンスではなく、ちょうどやめたくなったからこれにておしまい、そんなあっけない終わり方だった。私は日頃の彼がユーモアに富んでいることを知っている。しかし白州でのパフォーマンスは、彼のリラックスした一面をさらけ出した。しかし白州でのパフォーマンスは、彼のリラックスした一面をさらけ出した。
室伏とはその年の秋、世田谷シアター・トラムで再び出会った。なにもない舞台に彼はふだん着で登場した。彼の体が本来の艶を持ち出したのは、後半の半裸の場面だった。彼は十五年前と同じように、全身をけいれんさせながら真後ろに倒れ、そのまま肩と尻と踵で激しく反動をつけて死後硬直のような不気味な動きをした。瀕死の獣という印象は今でも変わらない。これはワークショップではミイラの姿勢と呼んでいたものだ。
ダンサーになる以前、自ら生と死をコントロールする山伏に興味を持ち、修行にも出かけた室伏は、即身のミイラを生涯のテーマに掲げている。かつてパリのアパートで、何かの行き違いで私が「鴻さんにはミイラしかないのか」と言い放ったことを、彼はまだ怒りをこめて覚えている。私は二、三年ごとに新作を発表するダンサーやカンパニーの「進歩」に羨望を感じ。手を広げようとしない彼にはっぱをかけたつもりだった。しかし私こそが彼を理解していなかったことを世田谷で知った。その間に彼が身体の表情を深めてはいても、スタイルを変えたわけではないことを確かめることができた。場所を変え、タイトルを変え、共演者を変えながら、<ひとつの>身体で<ひとつの>ダンスを踊り続けているのだ。停滞を意味するのではない。それを「無為」という為さぬ行為まで身体を通じて出てゆくことと言おう。身体に備わったリズムを彼が熟知していることをいっている。この一貫した持続上体(コンシスタンス)こそ、なにか爆発的なことにしか注意の向かなかった十五年前の私が見過ごしていたこと、そして今の私が一番強く彼のパフォーマンスに見いだすことである。
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