広瀬博
わけわからぬ、といえばわけわからず。だが、マカ不思議なる肉体の動きについ引きずりこまれ、一瞬につくりだす豪華けんらん、奇妙キテレツなる舞台に不覚にも嘆声をもらせば、魔神どもはもう離してくれない。──麿赤兒ひきいる舞踏集団大駱駝艦一派は、内部に「北方舞踏派」「山海塾」「アリアドーネの會」を生みだし、なにやら広域暴力団の全国制覇にも似て、その拠点を東京、北海道小樽、山形県鶴岡などにつくって自己増殖を続けていたが、今度は福井県の過疎地に入り込み“砦”を構築。7月30日からの旗揚げ公演は人口百人の山村に全国から千人もの若者を呼び、おまけになんと本物の嵐まで呼んでしまった。初め、坊主頭の“侵入者”を警戒した土地の人たちも“祭り”の中にとけこんだようであった。
山また山である。が、そっと耳を澄ませると、海鳴りが、嵐の序曲のように遠くかすかに響いてくる。山の向こうは日本海。福井市五太子町は、町といっても、戸数わずかに20余り、あたりには、イノシシやシカ、サルが出没する。全くの山村である。近くの五太子の滝にはオオサンショウウオも住んでいる。ここに、山野を駆けめぐり、滝にもぐって修業する奇怪な舞踏者たちが突如出没するようになったのは、今年の冬のことである。この、名づけようのないものたちの出現にびっくりしたのは、山の動物たちだけではない。最も驚いたのは、当然ながら110人の住民であった。
雪の降る寒い日であった。風のように現れた3つの人影。男2人に女が1人。1人の男は、ドテラを着込み、顔は馬のようにやたらと長く、ヒゲはぼうぼう。もう1人の男は、皮ジャンパーにジーパンといういでたち。頭は丸坊主、眉毛も剃り落としている。連れの女はといえば、キツネの毛皮のコートに身を包んでいる。3人は、村なかを歩きまわり、廃屋をみつけてては、のぞきこんだり、中に入っては、なにやら物色している。見るからに怪しき3人連れ。
「ありゃ、暴力団かや」
「いや、女がいるところをみると、ブルーフィルムを撮りに来たんじゃ」
村中に噂が飛びかい、あわてて警察に電話するものもあって、山村は、いっときえらい騒ぎになった。
「びっくりしたって、そりゃ、東京からわざわざ、こんな田舎にくるんやから何かある。浅間山荘事件、リンチ事件まで思い出して、寄り合いを二回も開いたかな」と村人たちはいうのである。
いろんなモンチャクのすえ、廃屋になっていた養蚕農家を1軒、持主の郵便局長が身元保証人になることで借りることになった。話が決まると“舞踏伽藍”の建設に乗り込んできたのが、大駱駝艦の若者たち。全員、丸坊主頭に、眉毛は剃ってなし。これは、ご本人たちにいわせると、「髪型が歴史を決定する」という信念にもとづくもので、丸坊主になることは「世界観が変わっちゃう」ほどのことなのだという。若者たちが、ゾロゾロと、風を、音を後頭部で感じながら気持ちよさそうに歩いたとしても、土地の人たちには「罪人」のイメージしか浮かばなかった。
が、これも、毎日見馴れると気にならなくなる。だが、余分なものは、1ポンドの肉たりとも削り落とすという、マゾヒスティックなまでに鍛えぬかれた肉体は、一種異様なふんいきを漂わせている。廃屋は3ヶ月たつと“舞踏伽藍”に変わっていた。お祝いにかけつけた暗黒舞踏の大御所土方巽氏も「こりゃ、いい家だね、ほんとうの田舎家だね、においがするね」と感心するほど。舞踊家にとってにおいとは大へん大切なものであるらしい。北方舞踏派の塾長ビショップ山田が、漬物樽のフタをあけて中身を丹念に調べるのが楽しみというのもそれと無関係ではないのかもしれぬ。
伽藍の名前は「北竜峡」。主は、室伏鴻。彼はここを拠点とする舞踏派背火をつくったわけである。麿赤兒にいわせると、伽藍をもつことは、「一国一城の主になることだ」というが、室伏は、「棺桶」だという。そこで死にまた再生する場所なのであろう。北陸を選んだのは、「舞踏は北方のもの」と信じる彼らにとって、「北の南限」の地だったからだという。
厳冬、烈風ふきすさぶ山野をかけまわる彼らの姿を、真夏の太陽のもとでふと想像した。たしかに舞踏家の肉体はどこか北国の厳しさを感じさせるものがある。
結成記念公演の開演は、夜6時半。頭をぶつけそうな階段をのぼると、蚕部屋は舞台と桟敷にかわっている。桟敷は、観客でぎっしり埋まり、立錐の余地もない。「ここは昔蚕部屋、こんどは人間さまが蚕になっていただこうという趣向で」と、麿赤兒が説明してくれたが、なるほどその通り。ビニール袋につめた靴をもち、ヒザをまげ、じっと息をつめているさまは、まるでマユになった気分になってくる。このままの姿勢で、たっぷり3時間、舞踏をみるわけである。
演目は《虚無僧》。全身泥をぬりたくり、背に炎を浴び、ミイラを演ずる室伏の舞踏は底知れぬ不気味さが漂う。暗闇のなかで、スポットライトをあびると、酷使に耐えた肉体が、神がかりとでもいおうか、この世のものとも思えない光をはなつのである。足の痛みどころか、暑さもふっとんで、地獄につりこまれてしまいそうだ。この公演をみようと押しかけた人は、連日300人を超した。それも、北は北海道から南は九州まで、泊まりこみ覚悟でやってきたのだから、これもまた異様であった。
久しぶりに“芝居”がかかると喜んでいた五太子の人々は、遠来の客に席を奪われてしまった。そこで、もう1日地元貸し切りの追加公演がもたれた。
「昨日も、おとついも、ひでえ人で見れんぞといわれ、今日こそはいのいちばんにこようと思って」という、区長さんのばあさんをはじめ、村中総出の観賞である。が、ちょっと勝手が違ったようだ。重箱にごちそうを詰め、魔法びんまでもってきたものの、幕間があるわけじゃなし、おまけに“ミイラ”が舞台で踊っていては、せっかくのごちそうものどを通らない。3合びんをもちこんで、チョビリチョビリと酒を片手に“芝居見物”とのりこんだじいさんも、酒どころではない。大真面目な顔で舞台をにらんでいる。
住民たちの感想はなかなかユニーク。
「ありゃ、人間わざじゃないぞ、人間のできんことやっとる、おもろかったな」というのは、3合びんの主。
「ま心こめて汗水流してやってるもんはソマツにできんね」とは、隣のおばさん。前をみると、「ナンマンダブ」「ナンマンダブ」と手を合わせているばあさんがいた。
「人間が生まれて死ぬまでの絵巻物をみているようで、死ぬとき苦しんだりあえいだりすると、仏さまが出てきて救ってくださるのですね、ありがたい」と、また合掌するのである。
「こりゃ、いっぺんだけ見ときゃいいんじゃ、頭のよっぽどいいものか、悪いもんがわかるんで、中くらいのもんにはわからん。それで前衛芸術というんじゃ」
あるじいさんはこういったが、そういわれてはどうしようもない。一方、麿赤兒は「四の五のいわれているうちがハナなのよ。ハッハッ」と悠然とかまえていて、芸術論なんてしゃべり出す気はさらさらないようす。
その夜、“伽藍”では、土地の人たちも集まってモチをつき、山菜、タケノコ、サザエ、イカを肴に飲めやうたえの宴が、夜ふけまでつづいた。土地の人たちは、こんなたくさん人が来たのは昭和14年以来のことだとしきりにいうのである。昭和14年とは、山崩れで村が埋まり、救助隊が大挙かけつけ大騒ぎになった年だそうだ。まさにこの人たちがいうようにこれは「村始まって以来の祭り」であった。
4日間にわたる祭りは5日目に突如襲った嵐によってみごとにしめくくられることになった。夏空ににわかに暗雲がたちこめたかと思うと竜巻が起こったのである。一瞬のうちに、花輪やムシロ旗を吹き飛ばし、幟をひきちぎり、祭りの余韻をあとかたもなく消し去ってしまった。この嵐の襲来を“チミモウリョウ”どもが“天からの祝砲”と喜んだのはいうまでもない。
なぜなら、「嵐」は大駱駝艦9月東京公演(27日から29日まで日本青年館ホール)のテーマでもあったからである。