時の夜の黎明に 室伏鴻頌

ジャン・ミッシェル・パルミエ

──多くの西洋人が、安売りの東洋に閉じこもっているときに、室伏は私たちの方にやって来た。彼もまた通過者であり、私たちの文化の起源の詩的で予言者的な正しい理解のもとに、東洋と私たちの間の詩的で哲学的な対話を開くことに力を尽くす数少ないアジアの芸術家の1人である。彼は私たちに、ニーチェの考えたディオニュソスとハデスの間の極めて緊密な関係、つまり生のその過剰なノスタルジーと死自身による聖化、悲劇と音楽の精神の関係、大地と肉体の確かな意味が決してたわ言ではないことを示す。なぜなら彼の中に、私たちの死が刻まれ、室伏にとってもまた、肉体は寺院であり、棺である地上の蘇生の場であるからなのだ。ニーチェが、ショーペンハウエルとともに仏教をまじめに考えた西洋では稀な思想家であるならば、また、はかなさのヴェールをはぐことをニーチェのように誉めたたえることが日本の伝統の中心に再発見されるならば、室伏は奇妙な回帰によって、キリストの死を自身の伝統に再統合する。彼は苦悶する肉体の夢化されたダンスによって、東洋とキリスト教の二重の伝統を集めようとし、死の舞踏ではなく、全ての事柄の基礎である肉体、生──死の起源的言語の中に調停することを夢見る。

──室伏のなかには、あらゆる絶望の彼方にある明晰なペシミズムのようなものがある。驚くべきことに、彼のスペクタクルのタブローの多くは、エゴン・シーレの自画像──セクシュアリテと破滅性と死の混濁を想い起こさせる。彼の身振りは、表現主義をしばしば連想させ、彼自身、20年代の絵画の生きながら磔刑された人々に自分を一体化しているようだ。もちろん彼はこの伝統を知らないし、考えたこともないだろう。しかし彼の中には、アントナン・アルトーの残酷の美学のようなものがあり、またドイツの新しいダンス、ピナ・バウシュの、彼女のヴッパータルのバレエを見ても、今日、ダンスのみならず、絵画のレヴェルで私たちの夢や現在の苦悶の半欠けのイメージを表現しようとする新表現主義のすべての伝統と出会う点がある。たとえピナ・バウシュが20年以上前、土方巽とともに生まれたとしても、舞踏の表現は単に日本の現象に終りはしなかったろう。それは、言葉の強い意味での、超[トランス]文化的な何かであり、不安な奇妙さ、既に出合ったもの、既に知っているが抑圧されているものの印象である。

個人、個人が室伏の中で、快楽、苦痛、夢、死が実に緊密に結び合ったタブローに向かいあっていると感じるのだ。

−Revue de l'espace KironScenesNo.1−


《漂白する肉体》 パンフレット