室伏鴻「Edge」

die Pratze[2000年11月21日(火)所見]

武藤大祐

いまや「舞踏」とは、弱気なアイロニーの対象としてかろうじて生き長らえている、一個の理念にすぎないのではないだろうか?

そんな及び腰は、見事に粉砕。仮にもはや「舞踏」などと呼びえないものであったとしても、室伏鴻の踊りは、まったくとんでもなかった。とにかく重要な場面が連続した。室伏の身体と観客の知覚が、時間を追って多様な危機的局面を次々に迎えていくという意味においてである。それらはある種の事件性を帯び、紛れもない目撃であった。手垢にまみれた理念というものは、死んでしまったのでは決してなく、たえず復活の好機を窺っているものなのだ。

冒頭、のっけから柱を突き放すようにして仰向けに倒れ、後頭部で着地!客のつかみがうまい。芸術のフレームを芸能で巧みに切り崩すスタンスは、終始一貫していた。そして運動を極限まで抑圧して立つ。まるで皮膚という袋の中をなにか別の、エネルギーに満ち満ちた生命体がうごめいてでもいるかのように、ある部分は力をはらんで硬直し、ある部分はあからさまに弛緩し、この両極端がまるで常軌を逸した仕方で全身に布置されていく。驚愕を禁じえない。室伏は明らかに、みずからの身体と(いや、何かわからないが確実に何かと)闘っている。

その上あろうことか、喋る!独り言と呼ぶには観客との間の距離があまりにも深い、にも関わらずこのぼやきめいた言葉たちは、ときに完全に自閉して聞き取ることさえできないのである。ならばこの声の重みはいったい?なるほどそこに踊り手の全身体が賭けられているならば、声を発することもまた踊りであるにちがいない。しかしそうはいってもこの、観客と関係を結びつつ同時に断絶して孤独な、決死の闘いは、そんな踊りという行為のとらえがたさと、身体というものの持つ底知れぬ深淵をまざまざと見せつけた。誰も手を出せない、自律した、荒れ狂う渦のようなもの。一個の戦争。観客の視線はなす術もなくそこに巻き込まれるばかりである。本当の身体は言説化を拒むのではなく、ねじ伏せ、挫折させる。

November 21, 2000

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