イメージを刺激する撓められた背中

國吉和子

極度に撓められて婉曲する背中、これが室伏の舞踏のすべてである。他一切余分なものはない。かつて、室伏は大駱駝艦のメンバーとして、燃え上がる屈棺の中から火勢に爆ぜるようにして蘇るミイラを踊った。彼の背中の原型はこのときのミイラにある。その後、四半世紀以上もの間、火種を抱え込んだまま、一時として定住することなく、世界各都市を巡り舞踏を踊り続けてきた。その背中に自らの放浪の形を刻印し、彼はそれを「背火」と名付けた。存在のすべてを背中一枚に集約し、それが表現として成立するか否か、である。

たえず変化し、崩壊し消滅に向かう身体を確実に意識し捉えるにはどうすればよいのだろうか。ひとつとして定着する手掛かりがないとすれば、絶え間なく変化し、移りゆくものに向けて、身体はつねに開かれていなければならないだろう。たえず打ち砕かれ霧散しながら変貌してゆく最中にこそ、身体が生み出されるのではないだろうか。

室伏は一人、素肌に直に黒のスーツを着た姿で舞台に登場する。しばし逡巡した後、唐突に始まる。スーツを脱ぎすてると、銀粉を塗った身体が現れる。白い筋と鍛えられた筋肉だが、決してマッチョではない。少し前かがみに辺りを伺うような姿勢をとる。猫科の獣を連想させる獰猛さとしなやかさだ。そして、なんの理由も前触れもなく、全身が内側に集中し、凝縮する姿勢に入ってゆく。内部の力の猛烈な引き合いと精緻な秩序に従うかのように、次第に白熱し精錬されて、見たこともないような輝きをもったひとつの生命体として存在しはじめるのである。

この撓められた背中は、観るもののイメージをさまざまに刺激する。甲殻類の外皮が描く不思議な紋章のような、あるいはエイリアンの卵のような、不気味な形に変貌してゆく。人々は驚きをもって、あの背中について語るだろう。かつてニジンスキーが『牧神の午後』で形象させた身体の幾何学を、室伏は一枚の背中で実現したと言えるのである。

しかし、室伏の身体はイメージの生成嚢であることにいつまでも甘んじてはいない。事もなげに中断し、またはじめからやり直すかのように舞台を彷徨する。舞台先に身を乗り出し、その反動で身体を硬直させたまま、仰向けに転倒する。事態を唐突に断絶させる危険な投身術である。後頭部が少し切れて出血しているが、これは先程、舞台奥の赤い鉄の扉に頭突きを繰り返したときの傷だ。特定のイメージに絡めとられないために、力は自身の内側に向かって次第に引き絞られてゆく。 

そして、あのつぶやき。詩的な言葉を朗々とカタルのではなく、思わず失笑してしまうほど、室伏は日常的に直接語りかけてくる。どこか物慣れた見世物師のいかがわしさが漂う。室伏の身体が急速に鈍化されるプロセスの真っ只中だというのに、当の本人が極めて覚めた顔で語りかけてくるのだ。彼の暴力はトランスではないのだ。すると次の瞬間、直立転倒に向けて、室伏の全身は唐突に硬直し始める。身体をイメージからもっとも遠いところに追放することによって、室伏の身体はどのような解釈も受け入れ、同時にいかなる解釈も拒否しているのだ。この二つのスフィアの間に無防備に差し出されたものが、彼の背中なのである。


構成・振付・演出 / 室伏鴻
ダンス / 室伏鴻、バレンティーナ・カストロ、ラウル・パラオ、ロドリゴ・アンゴイティア
1025 シアタートラム

January 2002
『ダンスマガジン』

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2002