竹重伸一
インプルスタンツは毎夏1ヵ月間ウイーンで開催される国際的なダンスフェスティバルだが、室伏鴻はここ数年毎年出演していて、今年は振付作品『墓場で踊られる熱狂的なダンス』と新作ソロの2 作を持って参加した。私はフェスティバル終盤8日間の公演しか観られなかったので、残念ながら振付作品の方は観られなかったが、フェスティバル全体のクロージングを飾ったソロ『Faux Pas』は私が観た公演の中で、唯一ダンスの未来を切り開くヴィジョンを感じさせる舞台であった。タイトルはM・ブランショの同名著作から取ったものである。
天井が高く、柱を挟んで両袖に余白の空間のある舞台には中央に1脚の椅子だけがある。そこに銀塗りで帽子を被った室伏がごく日常的な佇まいで歩んで来る。そして両腕をやや傾げてアンバランスに伸ばし、息を吸い込みながら呻き声も交えて肉体を激しく引き絞り上げる。そこに肉体の軸は確かに存在するが、その軸はバレエのように足裏の一点から頭頂の一点へと繋がっているただ一本の垂直軸ではなく、移動する足裏の複数の点からぶれや揺らぎを秘めながら頭頂の一点へと繋がっている複数の垂直軸なのである。このぶれや揺らぎを秘めた垂直軸こそ舞踏の踊りの核心にあるものだと思う。そしてその凝縮されたエネルギーが極度に高まった所で不意の後方への転倒が訪れる。普通舞踏の舞台とは持続する濃密な時間の流れである。だが室伏は意図的にその流れを切断する。いわば時間に穴が穿たれるのだ。そこには束の間無時間=死が顔を覗かせる。つまり切断されるのは我々が無意識に世界と取り結んでいると信じている有機的な統一性なのである。この瞬間に彼が自らよく話す〈外〉が立ち現れる。ここで気を付けなければいけないのは、この〈外〉が発する点は宗教的な恩寵ではなく偶然=死であるということだ。キリスト教徒であった大野一雄の舞台はもちろん、土方巽の舞台の感動も宗教的なものと無縁であったとは言えないと思う。しかし室伏は信仰とは綺麗さっぱり縁を切っている。ならば室伏の踊りの垂直軸は何が支えているのかといえば彼の硬質な形而上学なのである。彼の踊りは観念とエロスと死のせめぎ合いであり、常に即興でなければならないのだ。彼の踊りの現代性と困難さはその点にある。少しでも集中力と肉体的な危機感を失えば、たちまちに舞台は日常的な感覚に堕してしまう。だがこの日の1景の室伏は終始凝縮と切断が高い密度で維持されて圧巻であった。唯一残念だったのが最初から無音で続いてきた景の最後に響いてきたロックである。このノリの良い音楽も切断の一つだったかもしれないが、踊りの緊張感が突然失われてしまった感じは拭い切れなかった。
時間差を置いて天井の下手と上手の2カ所から滝のように流れ落ちる塩と銀塗りの肉体で塗れる2景を挟んで、3景の冒頭ではニジンスキーの『牧神の午後』のあの頭と腕と足を横に向けた振付が借用された。ただし音楽はドビュッシーではなく後藤治のノイズ音楽である。この最終景は常に求心的な踊りをしてきた室伏にとっては珍しい、遠心的な「舞」といっても良い踊りを観せた実験的な景であった。舞台奥中央に立ち、一挙に広大な風景を獲得した空間の下美しく明確なフォルムの持続から展開された踊りは、ニジンスキー作品のモチーフを室伏のスタイルで反復したように思える。力強い踊りに漲っていたファロスの欲望は満たしてくれる対象を見付けることができずに空転し始め、終には自慰ならぬ転倒の繰り返しで虚しく終結したのである。
現在世界のコンテンポラリーダンス界は依然としてスポーツと同質の運動性に支配されている。しかしダンスとはダンサーの肉体と観客の肉体という物質を基礎にして日常性を超えた時空間を舞台上に創り出すことであり、そのためには運動性は従属的な条件でしかないのだ。そしてその時空間は同時に未来という次元に開かれていなくてはならない。この舞台には硬質な結晶のごとくそうした時空間が確かに出現して、それは私の記憶の中に今でも手で触れるかのように生き続けている。(8月15日~17日 Odeon Vien ImPulsTanz)