宇野邦一
亡くなる前の日記の言葉が伝えられた。「カラダは1個、脳も1つだろうか、同時にいつでも、頭で考え、爪先で地面に触れ、太股や腋の下で汗をかき、別の、幾つものディメンションを生きている複数の私ではないか」。
幾人もの室伏鴻がいて、そのなかのひとりが亡くなったと思いたい。たくさんのダンスとダンサーに出会ったが、ダンスの「勇気」というものを教わったのは室伏鴻からだ。踊るたびに、新たに勇気を見出すことがダンスの内容だったように思える。舞台に立つ勇気とか、踊り続ける勇気ということではない。踊るたびに新しい勇気を見出すということである。即興で踊る踊らないは別として、とにかく何もないところに立つ、転がる。肉ひとつを場に投げ出す。素材も装置も乏しいほうがいい。肉ひとつのマテリアリズムが基本だ。勇気とは、マテリアリズムの意志でもある。
パリで、ローマで、偶然再会したときには、もちろん旅の途上で、東京で会っても、いつも「道すがら」の軽みがあった。彼のダンスのマテリアルな重量とは対照的に。
哲学科出身の哲学的ダンサーでもあった。最近のダンスのタイトルは「リトルネロ」だった。子供の口笛、鳥の声、商人の呼び声のリトルネロは、領土の形成にかかわる。リトルネロとしてのダンスも、あらゆるディメンションにおける領土の形成や解体にかかわる可能性がある。この世界にあって、ダンスの責任が小さくないことを、彼は考え続けた。
かつて土方巽が室伏鴻に贈った一文を読み返してみた。「あなたの舞踏の中にもうひとつの苛烈な無為、為さない行為という側面も私はみたわけですね」。そうだ。「苛烈な無為」と土方さんが表したことを、私は「勇気」と言ってみたかもしれない。
もはや再会できないのは口惜しいけれど、あなたのダンスの勇気をずっと受取り続けるだろう。