追悼

バジル・ドガニス

鴻さんに初めて会ったのは、と言うよりも、彼を最初に観たのは、2003625日でした。2年間日本に留学した後にパリに戻って、ベルタン・プアレー舞踏フェスティバルに行ったら、地下の狭い舞台で鴻さんが乱暴なインプロを展開していました。
あの時の迫力が未だに忘れられない。あの日に鴻さんに話す勇気がなく、正式に会わなかったのですが、自分の中でこれはとても重要な出会いだと直感しました。

3年後の2006年秋に、アンジェ国立コンテンポラリーダンスセンター(CNDC)の館長であったエマニュエル・ユインさんにワークショップの通訳を頼まれました。「誰のワークショップですか」と聞いたら、「室伏鴻です」と。3年前の直感は間違っていなかった。鴻さんと縁があった。

やっと正式に鴻さんに紹介されました。最初は通訳ばかりに集中していましたが、どんどん鴻さんと仲が良くなって、僕の映画の仕事についても話し始めました。ある日、ワークショップの後、アンジェのテラスでビールを飲んでタバコを吸っていたら、鴻さんが「お前さ!一緒に映画作ろうよ!」と言いました。「でも、変な短くて安っぽいやつじゃなくて、10年も掛けて、映画作ろう!私の最後の10年間」。

僕は笑いました。あの時、鴻さんは59歳で、25歳の僕よりずっと元気そうだったので、「私の最後の10年間」と言っても、10年では映画が絶対終わらないだろう、と思いました。でも当時100歳であった大野先生のように、鴻さんが長生きした場合、40年掛けてでも彼と一緒に映画を作れたら面白いと思いました。

2006年から、鴻さんとの映画、そして「最後の10年間」のカウントダウンが始まりました。2006年、2008年、2010年、2012年の隔年にアンジェのCNDC2ヶ月のワークショップが開催され、映画を続ける機会を頂きました。その間、2007年、2009年、2011年、2013年に、マラケシュ、パリ、別府、東京、出羽三山、アゼルバイジャンに亘って、映画を撮り続けました。

毎年、カウントダウンについて、冗談で鴻さんを苛めました。「鴻さん、やばいよ!後年だよ!後3年だ!もうすぐだよ!」。2人でよく笑いました。1回だけ、2012年に鴻さんの健康が心配になりましたが、あれから復活して、彼はパフォーマンスやワークショップを重ね、相変わらず世界を回り続けました。

そのなかで、南米への旅は、最後になってしまいました。
アンジェの話しからちょうど10年。考えるだけで、鳥肌が立つ。

今になって、鴻さんとの長い付き合いは、とても贅沢に思っています。並はずれた芸術家に対する深い尊敬も含めて、今1番辛いのは、愛していた友達を失った事です。その愛を言葉で表現するより、鴻さんの最後の10年を映画として完成させながら伝えたい。

2015
『〈外〉へ!〈交通〉へ!』