東京。「土方巽’98」

1999

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私の亀裂。

私とは、ひび、裂傷である。
いたるところに傷、裂け目がある。
痛みが、そのいたるところにあるので、私は、いたるところで、無数に引き裂かれる。ひとつの開いた傷口であることはできない。ひとつの痛みのなかへ無数の傷口とともに行かなければならない。
私は、ひとつの私の身体に届くことができない。届くことができないものを届くようにしなければならない。
交流は、一気に無数のものたちと交わされねばならない。

私は流出だ、あるいは、吸入。あらゆる方向への、彷徨である。
いたるところにある開口部が痛みのラビリントへの入り口であり、出口。
私が私から遠のいて行くばかり。すぐここに、私は在るというのに。
引き裂かれて、在ること。しかし、それは喜びです。
私は崩壊する。在ることはなくなること。すぐここで、無数に走る亀裂のなかへこなごなになること。私は断片化し、散乱し、錯乱し、乱反射するものとなる。

私というものは、もう要らない。Vertigo、無数の力の渦。幸運。
その眩暈は、無数の傾きの、その縁で、無数の偶発事へ、開かれたままの、海の、砂漠の、強度と流れである。

切り詰めること。貧素の極限まで追い詰めるようにして踊ってきた。
外の線を引き込み、旅と放浪と亡命の線を身体上に極限して、踊ってきた。
息で別の息に交接し、複数の息と複数を暴力的に引き出す。窒息させる。
みずから窒息する、踊らない白い沈黙であること。

(私の息のなかにはつねに他の息がある。私の思考のなかにはつねに他の思考があり、私のもっているもののなかにはつねに他の所有がある。重要なのは、すべては複数であり、私は他者であり、何か別のものが、思考という攻撃、身体の多数化、言語の暴力において、われわれのなかで思考しているということ。ここに楽しい知らせがある。)

夜の外の夜の声、叫びと沈黙。すっ裸で、声と息の「裸形性」にさらされること。
むき出しにされた裸体にはなにがある。汚染された裸体には、死と愛の、病と屈辱があるだろう。
痛んだ骨と筋肉のあいだの軋み、こ擦れあい。
皮膚の表層のギザギザになにが棲んでいるの?記憶の途絶した血と海の多数多様体?
隠れながら露わになる、露わになることで隠れてゆく流動する水銀の不定形。
匿名の、名を奪われたものたちの形。

いつ跳ぶの?いつ走るの?
私の裂け目を愛撫するように、亀裂とひびは、いつ電撃のように走るの?

その潜勢する力を外部へと告発し、見えるものとするために、私は、私の攻撃する思考で耐えていかなければならない。じっと待機しなければならない。
誰かが静かにやってきて、私のリミットに触れ、引きずりだし、晒しものにするまで。

誰が鳥や獣の泣き声へ(私を、もはや私でないものを)追い込むの。そして、なぜ見物たちは、そこに必要なの。
錯乱と孤独が、私のなかの分裂となにか得体の知れない力が、むき出され、どうしたものかと困惑し、統制を欠いて、そこで怯え、緊張し、痙攣し、防御する力と攻撃する力のせめぎ合いの、偶発する力の場へとひきすえる。

見物たちもまた、そこへ到来する。彼らの息づかいを背中で感じ、閉じた視線で私は交流させる、別の息、私の他者を交流させる、私も見物だ。
非対称の、非人称の、場所なき場所での相互に「到来すること」が全てなのだ。この息と無数の息の交流が全てなのだ。それから外れてしまったら、すべてが台無しになる。

しかし、私は外れるだろう。私は外らす、外らしつづける。外れなければならないのだ。

ここが重要だ。
なぜなら、「交流の絶頂」というようなもの、それは非対称なものなのだ。それは、一致のなかではなく、相互に外れあうことのなかにある。
だから すべてから私ははずれていなければならないのだ。

外の力とはなんなのか。
亀裂が亀裂の中へと解消されるのではなく、無数の息がひとつの息の中に同一化するのではない。亀裂が亀裂にむかってあらたな亀裂を走らせる。息づかいの交ざり合いは、一瞬の息の消失点で他の息を産むのだ。

私たちは出来事へとひきだされる闘争の場にある。
はじめての反復、「こんなのはじめて」のその反復となるのだ。
もはや踊りではない。踊りであることの同一性が目指されていたのではない。
亀裂した身体によって踊る身体に亀裂を入れ、もはやなにものでもないもののほうへとひらくこと。未知の相互に交流し合う遭遇の、場所なき場所、初めての、一回性の、エフェメラルな、出来事として到来し、体験と交流の頂点を一瞬指し示しながら、消えてゆく、なにものでもないものの強度とその反復。

パリ。
「—– 振り付けに当たっては、ニジンスキーのオリジナルにこだわらず、ウィグマンからベジャール、パウシュへとつづくヨーロッパのコリオグラファーによるその変奏についても一切参照することはなかった。ただストラヴィンスキー の音楽については、音楽を担当したアラン・マエと再三話し合い、手直しをした。ストラヴィンスキーはコンピューターの鋭利な刃で砕かれ、さらにメタリックに過剰に変奏され、ダンサーたちの肉体に突き刺さった。私は、銀色、水銀、海を振り付けの線とした。
すでに切り離され、切り刻まれ、別々のものにされた魂や肉体の複数の場所から「ル・サクレとはなにか」を問うこと。民俗や民族への再帰でも、母なる自然への回帰や超自然への帰依でもなく、別の共同体や他のそれを立ち上げる幻想でもない。サクリファイス、真っ平。むしろカオスの海へのノマディックな投身、無数に遍在する無意味な炸裂と輝きをぶつけた 。——」

March 5, 1999 Tokyo
室伏鴻