日記

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年度

1986

内容

1986年9月のRevolute Festival「エロスの涙」初演に批評家が不在であったことに関しての記述から始まる。「(前略)ベジャールのKABUKI/ミラノにとられたことも事実だろう。出会いがないのだ と片付けるわけにも行かない。しかし今はそう考えるほかはない。こちらによびよせる力が足らない コケにされたのだから考えるほかあるまい。(中略)しかしそれを逆転すること 逆手にとること これもまた ひとつの過激な志にとっての幸運とみなすこと。DANCEの批評家が相手なのではない ということを 肝に命ぜよ。観客の熱狂 Bravo 全ての人々との握手 それがあったのだ。いずれそれが全く無い斗いまでも予想しなければならぬ。こちら側から劇場でのBravo!!の罠を拒み それを沈黙!なぜ!?に変換させてやらねばならぬ。それを仕掛けなければならないのだ。(中略)土方巽は最終的に〈舞踏〉というジャンル内からはみ出すことなく終わってしまった。その初発に於いての〈肉体〉とは もっと脱領域性を帯びたものだったはずなのに・・・ジョン・ケージにひとつの過激な典型を見出すが 嫉妬と同時に 処世上手を感ずる。余りに頭脳展開に頼りスマートすぎはしまいか。ここでDANCEというジャンルや劇場のOrganizerの手のうちから〈外〉へと突破する 方法―実験 への模索の道へと通じなければならぬ そのうえで Danceのジャンルや劇場をだしぬくことが これからの全てである。(後略)」Genova6日目、Genovaの憂鬱、Genovaからの移動、と日記は続きウィーンに移動、ワークショップの記録など。ワークショップ後パリに移動し、やどで「ジャンヌ・ダルク裁判」テオドール・ドライヤー)、」「上海から来た女」(オーソン・ウェールズ)を見てファルコッティの涙に泣かされたこと。International Opera Balletの事務所を訪づれ来年の予定などの打ち合わせを行ったこと、ミュンヘンから矢野真氏、細川周平氏への手紙の下書きなど。