日記

1 Pages

年度

1990

内容

4月22日から5月7日の日記。「その女は まず僕の正面を外して位置をとる。まずその女は 準備の状態をしつらえるのだ。彼女の好奇心 そして それを悟られまいとする警戒心 の ちょうど良いバランスで」その女は位置をとる。しかし それは 不可能な事が すぐ明らかになる。なぜなら 僕は めまぐるしく 正面を移動させながら 逆に その女の正面に触れようとするから。僕は はじめから その女と決めているわけではない。そんなことは不可能だ。取捨選択。それは触れること。何度も 何度も 通過的に 触れ そして 過ぎることへ 接続の中で決まるのだ。いくつもの はぐれ はぐらかし 僕はルーレットのように いや ロシアンルーレットのゲームの様に いくつもいくつもの偶然に任せて 正面を移動させるのだ。(後略)」(日付なし)「ここはパリで パレ・ロワイヤルのCafeで 僕はメトロに揺れた突端で動き出した脳髄のその揺動から〈日本語〉がころころとフリだされているのを 少し拾い出し 書き取って置こうと思うのだ。例えば風呂に浸かって 血液の循環が戻って来て 適度に疲労が ほどけてゆく時の 僕の脳髄/身体は、いつも感ずることだが メモを記すことを許さぬ程の格別の速度で 或る文章・概念を繰り出すことがある。ほとんど 身につまされる 自己批評や この一ヶ月にも亘って予感的に準備していたのに まとまらぬままにあった想念が 一気に 素晴らしい(と感ぜられる) 無駄のない(と感ぜられる)流麗さで 流れ出す。この僕の身体 ほど枯れた頭脳 それは 明らかに日常の僕の速度とはちがった〈別の速度〉で奏でられている。軽快だ スバシコイ とてもユーモアもきく この状態は なんというのか 躁鬱の〈躁〉というのではない。それは 湯舟とともにあるので 快適に 整理・生理された状態。ところでこの状態の特権性について考えることが目的なのではなかった。生理的変動や移行状態にあるところの〈肉体〉が とともに産出/繰り出す 移行状態のままのことばたちについて 少し説明も要るであろうか。例えば 踊りながら 物凄いスピードで 照射しあっている 二つの/ あるいはそれ以上の 肉体についてならば 極く当り前の〈体験〉として語ることができるであろう──踊り手として。」(抜粋 日付不明)