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1990
8月11日から11月2日の日記。「余所へ トランジット!どこから どこへ 行くのか / 出るのか ワタリの穫り 何を穫得し 何を失うのか もと・元始・失うものなどなかったのに 皆の逝った 廃墟に あり 蟻 アルカディラ? 闇のねのね 闇・テネブルにテネブルなルーツなどない。あるとする 神話 / 物語りは カタリかタカリなのだ。テネブル・ファンタジーやエキゾチック・エスニックがその物語や風物の根を生やし エティックを失い カタリの交通・交換に値がはり 文化・物産の市がそびえる──ならば闇市に、キャラバン・サライに──身をひねり 身を尽くすようなpassageがあるだけだ。そこではいくつもの夢が砕け 散る そしてねなく ななしの交接がある。そこでは 崩壊にさらした形・音があのねのねなのだ。忘却にさらされて立ち上がる未知の記憶〈走馬灯をめぐって〉われわれは どこへ出るのか!聖俗のメロディもリズムも見ず知らずの新場所へ!ヒガシもニシもヒナもミヤビも さて ヤボもイキも域切れの果てなしのトランジット でな! 機上の室伏鴻」(9月6日)フランクフルト、フライブルクなどを周り帰国。舞踏実践講座 室伏鴻の「土方巽」研究 に関する記述。「ヒジカタの不可能の領域にフレル試み。研究の手法はノマディック 遊牧的だ 農耕的でなく 狩猟的に ヒジカタの〈過剰〉について考えてみる。野蛮という形式。」(抜粋)1.危機 2.病 3.無為というふるさと サクラフェイス 衣装論 そしてダンス!など に関する考察。舞踏実践講座用かもしれない。「少年とエクリチュール」(デリダ)に関する記述、「青空」という主題について、なぜ人は固有の辞典を 辞書を実現しないか などの記述あり。