日記

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年度

1990

内容

11月3日から12月13日の日記。「11/10(土)Dusseldorf Werkstatt "En '90"  4:30ステージに降りる。Warm up 6:33-7:00、8:30-9:30 En。終わってBravo 良い出来であった。独りでAltstadtへ出る。昨日よく動いたのが 体調によかった。塩の代わりに紙を敷いたideaも悪くなかった。良い出来だった」(11/10より抜粋)。「11月11日 雨の朝。 11時まで休んでいた。シャワーを浴び駅まで歩く。駅内のスタンドでCaféとパン 朝食。ハインリッヒ・ハイネ・アレーまで散歩してSで帰る。午后1時間ばかり午睡した。周平の本を久しぶりで流し読み。励みになる。「ノスタルジー大通り」は よい本だ。」(11月11日より抜粋)「例えば そうして 砂漠に放置され自生してゆく〈卵〉というものを 踊ることも可能だ。自己の身体の殻に閉じられ 自同化されたものを 砂漠の 砂の 流れ・熱・磁力といったものとの交流のさ中に 放置・放棄・蕩尽される力 によって。 からだに焼き付けられた 文化的な時間 文化的なすべてが溶*し 別の時間とスペースを必要としてくるのだ。その時 それが イメージや観念の操作にとどまるか 実際にそれを その流動・移行・変成を生きられるか(肉的集中)によって、さらにどこまで それを 身体的技術として 外在的に生きられるか──こちらを外的集中とするなら その 成るという演技 成るという時間=体験は 出来事として生成してくる。内と外といった分裂を 分裂したままに統御することの可能な transitの それは もはや演技というものから それを積極的に否定し 逸脱して 舞踏化する。それと入神の演技とは とても至近の距離にあるのだろうが 似て非なるもの のような気がする。虚実皮膜の論はどうか。世阿弥の花はどうか。」(12月1日より抜粋 チューリッヒ)。同日の日記に 「ヒジカタも〈東北〉が」、「〈ニーチェ:逆立ちして踊ること〉」などのテキストが続いている。