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1993
3月25日から6月15日までの日記。3月25日デュッセルドルフの記録から始まる。「Geneve まあまあよく眠れた 短いが。部屋からEmilioとパリのkazukoにtelしておく。11:30に迎えがありRadio Swiss Romandoのinterviewに行く。生番。日本人の通訳あり。’tradition’についてしゃべって少し通訳は混乱・・・2時 テアトルに入る。テアトル・ド・ラ・バスティユからの写真家のためにphoto用のリハーサル。9時本番"Ai-Amour"。出来は悪くない が 戸惑いのBravo!」(3月27日)。「ニホン語で書くこと は ますます難しくなる。一日おくとまるで気に入らぬコトバが並んでいる。”コトバ”の出会い・混成については フロイト、ラカンをへて バルト、クリスティヴァへ 考えすぎるということはない と 思う、が、それ以前に その’混成’を為しつつ前進する 生=現実の方は いつでも先なのだ。誰れが書いたか’作者’という主体の一件はもう過去のものだ。ここに於ても すでに 組織化 以前的な構造によって想起され 構造によってとらわれた力の逃走線の問題が語られた 闘争的な逃走の線! 7時のTGVを待ちつつビール。少し疲れた。眠気におそわれる。 あと1時間。」(3月28日)。「澁澤龍彦の文庫本をよみながら、本の世界に遊ぶということと 全く無縁なじぶんを思う。これはなんという大チガイだ。あらゆる時代に あらゆる人が どんな考えや嗜好にふけったのか そこにどんな象徴の網の目がはりめぐらされたのかを 執拗な興味と好奇心で追求追跡する類の快楽から じぶんが どれ程 遠い存在だろうと思う。しかし菅啓次郎の新しい世代の思考に出会うとそこには別の感動がある。僕は’本の虫’ではないが そこそこ自分の思考の移動や異変の手助けをしてくれる読書は好きだ。’知識のフェティシズム’、’エンサイペディスト’、そんなものになんでイミなど認めようか。では自分の踊りがよっている立場 それはなんなのだろうか?『本』というものを考える!?たとえば 土方巽の物質への偏した踊りと スタジオ200での僕の踊りを比較した市川雅氏の批評がよくそれについて見とどけようとしている。僕にとっては 踊りは 象徴的思考や意味の探究ではない。逆にその網の目から逸脱し 破れ目をつくり、意味から非・意味へと’必死の跳躍’を繰り返すことなのだ。(中略)ちょうど今日の午後’象徴的思考’について 澁澤龍彦的なもの ユングーバシュラール的なものについての疑問をメモしたところではないか。コトは簡単ではない・・・が このテーマは一方で至極単純なのだ。迷宮でもなんでもない。さらに迷路に追い込むべし!!/ 自己の身体に問いかけるべし!!/ 自己の身体の上に謎をかけるべし!! / 〈謎〉への挑戦を失ったものは すぐに見透かされるであろう。」(4月29日 Zurich)。