日記

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年度

1993

内容

1993年11月17日から1994年5月7日までの6ヶ月の間に、ウィーン、パリ、アミアンマルティーグ、ウィーン、レンヌ、ル・マン、アビニョンフィンランドを移動しながらの日記。「なぜか、’虚無僧’について いつかニホンのダンス批評家の一人から なぜ当時 あんなに面しろいスペクタクルがいくつもつづけざまに実現したのか・・・と質問を受けたことがあった。その時「一過性のコミュニスムの実現」「明かしえぬ共同性」──連帯の実現 あるいは その一過性の エフェメラルな束の間の瞬間的な成就──それはほとんどバタイユの 内的体験・外的体験への奔出という事態だ というような答えは用意しなかった。「大駱駝艦」という集団・組織の’黄金期’ いつでも組織が連帯におけるクラスと形式化の内的矛盾によって 非組織化へと消極化してゆくその以前、組織としての力の黄金期を過ごしている 力のユニティ。それはなぜか 明かし得ない 結び合い 誰もが判らないからこそ やっていることが出来、判らないままやっていることができる 生成と産出の しかし なんたる 理想化された出現と消滅であろう。集団内における個人の力の発揮 そして その成就・貢献は 集団の維持や 価値目標や 大義・イデオロギーといったもののアリバイによって支えられてはいない。もしそれならば とても機能的な集団性の実現ばかりが突出しはじめるだろう ’組織性’ばかりが表面化してくるだろう。「虚無僧」は 明らかに麿赤児の演出下に実現されたもので 振付及演出の成果は麿赤児に帰すべきものだ。けれど たとえば 室伏における「ミイラ」は室伏自身によって呈出されたものだし、天児やビショップのパートも それぞれの自己演技・自己演出によっているから 麿赤児の正確な位置は「構成」というのにいちばん近いのかもしれぬ。当時 いくつもの作品は そういう仕方で成立していた という点で 室伏自身は麿を構成・演出として依頼しつつ そのさらに外側と内側をプロデュース・制作するという 過剰な作業を実現している。いったいあの山奥に於ける北龍峡 背火旗揚げ公演が いったいどんなものに 形になるか 予測したものはいまい。当時 採算は度外視されていた ということはないのだ(中断)」(1月19日より抜粋)。「Parisに1時に着く。RERを使ってシャトレ メトロで St.Placide。Cafeでビールを一杯のんで2時半アパートへ・・・火事だ。外目よりもB館の内部はひどい。われわれの部屋はドアが炎でナメられているが鍵もこわれていずセーフ。しかし炎のススが・・・」(2月4日より抜粋)。「火事で’避難民’となって安ホテルで目覚める」(2月5日より)。「Hotel Excelsiorの隣は Cinema Accatone。ロビイにKOBO ABEの翻訳本がある。仮構のcahieg 秘密の告白 日記 手帖のように書くこと それも’踊り手’のか 何者なのか 判然とせぬ ニーチェ:悦ばしき知識をひらく 書くこと!Fiction!この火事 この火との縁!」(2月9日より抜粋)。「・・・と歩くうちに われわれの方向の対角線上に Le Mansのいちばん美しい街を見つけた。・・・・・地形によって人はだまくらかされる というやつだ。地形は単に動く場処や時間のかたちによって 決まるわけではない。全く偶発的な遭遇(動機をあらたに延長させるところの)によって こちらの風景も記憶も変形をされてゆくのだ。Renneへの一泊旅行の後の跡にLe mansの別の地形と地勢が重なってくる。そうして歩いているうち 小沢が日曜の移動ならLe mannsへ車を走らせてもよかったんだよ──といっていたのはなぜだろうと考える。電話してみること。Communicationを取ること。」(2月21日)。