日記

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年度

1994

内容

6月25日から10月30日までの日記。「音楽?そんなもの信じられない。何かしら信じているものをやっているように聞こえても そのウラにホンモノの〈懐疑〉の無いものはダメだ。なにがダメか。懐疑からの跳躍、飛翔するところに〈色気〉というもの、われわれの創作に絶対的に不可欠のものが成 生まれる。懐疑と飛躍を知らぬものには、すでに その 信じられた〈形式〉に於いて 色気が囲われてしまっている。閉じることは その直後になされる跳躍のためには不可欠だ が それは〈形式〉によって囲い・囲われることとは異なる。〈形式・形〉については 事はカンタンではない なぜなら それは危うさ その脆ろさ はかなさの於いて 同時にとらえられるものだから。〈形式〉が信じられる その 同じときとところに 非・形式が、それへの不信があるのでなければならぬ。」(7月7日より抜粋 ウィーン)。「僕は憑依やトランスについては 常にそれに対して 批評的な 距離をとることを主張してきた。宗教的な 儀礼的な 又 シャーマニスチックな意味での〈トランス〉は それを利用されれば一種の魔酔 ファシズムにつながるからだ。人間の日常的な能力を小こえて 底知れない〈闇〉が実在し 恐怖をのりこえてしまう力が潜在している。そうした超常的力の実在を疑うべくもない。逆にそうした恐怖の実在を信じるからこそ その力との交流 コミュニカシオンを通じて その力の暴発・突出をコントロールする〈舞踏〉を生き──きたのだ。コントロールできるかできないかのギリギリまで 接近しつつ その〈境界〉その〈limit〉に或る〈形〉を与えること──(後略)」(8月17日ウィーン)。「けいこが進まない。踊ることは 踊りの外へ出ることだ。我が肉体の 我れも 肉体も 同時に放棄し 追放することなのだ。 なぜミイラの身体から はじめたか。なぜ 傷口のダンスからはじめたか。 自己否定宣言! 踊ること それは、まず 私というものの放棄である。〈私〉とは 私と肉体の間で引き裂かれたものだ。いつでも すでに 私は 私では無い。なにものかを 生きているし 私の生は 我が肉体とともに その亀裂を生きているのだ。踊ることは 私と肉体の間の 亀裂 裂け目を踊ることだ。否、踊ることは 踊ることだろうか。踊る ということは 踊らないことではないのか。(中略)身体は快楽の用具であるか そのように問われることは 身体は受苦・刑苦の用具であるか と 問うことと同じ。」(9月7日)。