日記

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年度

1995

内容

11月10日から12月28日の日記。ゲッティンゲンにて。「プロセスと航行術、この例が具合のよいものだろうか。「絶えざるプロセスで」コトバ(傍点)即ち〈私〉を仮そめのものとして、絶えざる宙吊りにして〈私〉を命名し、固有の歴史を描いてみせることから逃走したのか。逃走あるいは彷徨こそが、なぜ『我が正義』としてこの10年来生きられ放浪されたかを 今、この私が問うているのか、それはHijikataの、Ohnoの創発したButōの線に別の線をひいてみせることであったか否か、と問うているのか。」(11月13日「絶えざるプロセスの中で」より抜粋)。「けいこ場10時。今日は時間に制限がない。「iving dead」生きている死者 Formにとどまっても、Formの崩れゆきに身を浸しても、すなわちアンフォルメルな、無定形の流れについても、いずれにせよそれはliving deadではないか。死を生きることではないのか。内側の外の身体に耳を澄ませ、目をみはる。われわれの内に外部が眠りこけているから、それを目覚めさせ、ひっとらえ、外を外側へとひきだしてやらねばならない、暴力的に、そして時には眠る児に呼びかける優しい仕種で。内と外のあいだで、すなわち間にあるわれわれの身体、われわれの内から外へ、外から内へと変転する皮フに沿って或いははりめぐらされた神経の網の目に沿って、我々の感受性sensitivity、感性sensualityを研ぎ澄ませ、さらに深めれば深めるほど、その行為は ニーチェの言うように〈解釈され=誤解され〉た真理と真理の間に死児のように眠る〈省略され、隠蔽され〉切り捨てられたものたち、すなわち闇に葬り去られたわれわれの死児たち、ノイズ、理解不可能なもの、未知の死体の発掘作業にそれは似てくるであろう。まるで我々は、じしんの墓地を暴き、堀りすすむ、墓掘り人夫だ。その一挙手一投足が死を通じて死との交換によって光り輝くわれわれの別の、もうひとつの生を再生させるが如く。」(11月14日 「living dead」より抜粋。『室伏鴻集成』に掲載されたものの下書きかと思われる。)同日14日に「死児たち(I)(II)(III)」というテキストを記し、15日の日記にはそのことに関しての記述がある。「きのうはけいこ場に泊まる。からだのふしぶしが痛む。きのうメモをとった「私の死児たちには名がない」はまるで戦後現代詩からの引用みたいな書き方ではないか。しかし、はっきり言って僕には、そうした文章のことはわからない、書けるように書けばよい。そのうえで、少し工夫をこらせばよい。その必要もある、 と思っている。私は、「詩人」ではないのだから「詩集」という型を知らない。しかしそれは踊りのために書かれたものなのか。このテキストの読者はどこにいるのか、が、詩と踊りに跨がっていると。だから「文章のことはわからない」と書いたのだ。文章だって、踊りだって読者との交通の場所によって すなわち劇場によって鍛えられ、精錬されてゆくものだ。(後略)」。(11月15日)。「(前略)つまり、大野一雄の予測される死はButoというジャンルの死であろう、ということ。なんだか Butoに関わる全てのヒトたちがButoの考古学でもやっているかの如く見える。Ko Murobushiという名も 少なくともその内側にあり、実際の彼の踊りもそのように見え感ぜられるであろうという絶望的な閉塞感だ」(11月17日の日記より抜粋)。「土方さんが、ある時言っていた「デタラメだよ」何について話していた時であったか。我々の頭脳的には、折目正しくされた思考では、どうにも整理のつかぬトッピなものがわれわれの肉体ではある。(後略)」(12月4日の日記より抜粋)。また、夜見た夢のはなしが8ページにわたって記述されている。