日記

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年度

1999

内容

1月4日から12月14日の日記。1月に行われた室伏振付のアリアドーネの公演「Haru no Saiten - un sacre du printemps」 の進行表や公演や出演者に対する記述と同時に、以下の記述がある。「土方巽がねそべる、衰弱する時、そこに死体が立ち上がる。「死体」とは何か。未知の 既知の 記憶が立ち上がるのだ。同時にそれは 私たちの絶望であり、希望だ。硬直であると同時に解放されるものだ。──死への限りない接近 接触 感染である 生である。その悦び、*きが照らす 私たちの恐怖を記憶し 出会い(の)めまい となる。転倒とは 立ち上がること。」1月12日に出たリベラシオンの公演評を読み 再びアリアドーネとのあり方について考える。2月3月にかけてのメキシコハラッパでのワークショップの記録。Francisco ATHIE監督 [Vera] のクリエーションの記録。7月 オーストリアのグラーツでの公演「Ximprovisation」に関しての記述。新作のプロポーザルとしてアラン・マエに送るために書いたテキスト「病から始める(下書き)」、「五体満足でありながら 不具、不均衡であること─は 何にidentifyのrepresentationを置き換えることが可能であるか?」、「息をすることの出来ない息で、声を発する事=Dance」など。7月インプルスタンツでのPro Seriesの記録。「行方のわからなくなったからだから始める事。はぐれたからだ、はぐれた歩きから!たとえば 余りにも長く陽にさらされて エネルギーの絶えた果てからはじめる。いつまでも それが 迷宮である。入口が出口。出口は入口であること。カフカ。カフカにつづけて 迷宮の出口 / 入口では 叫びが伴うのか それとも 叫びは 虫の息みたいに 筋肉のコッケイな軋しみ ネズミの鳴くみたいな それとも絶対的沈黙か。」8月26日の日記の中に木乃伊に関する記述。「木乃伊について書かねばならないのは、表情や感情を徹底的に隠蔽してしまう事。その上で「動き」だけで 「動き」死んだ動きだけでどれだけ やれるか 踊れるか 内発する力を逆に引き出す 閉じ込めることで 逆に引き出す と考えただろう。*金粉ショーの反作用かもしれない!?下部に眠っている力をよび出す事だ 即身の成仏儀 より近い*実験、バタイユの「内的体験」「有罪者」を並行させながらButo論を書きなおす事!やっぱりバタイユ!」12月14日『室伏鴻集成』の「弱さ、病のプロセスにあるもの、こども」の下書き。