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2012
1月7日から5月12日までの日記。〈無能力〉〈喪〉〈忘却〈踊り〉〈弱さ〉などについての記述。「(前略)〈喪〉そして 再生=トランスフォーメーション!! 鳥として 貝として ナメクジとして 雑草 雲 〈空〉石ころ ケモノ 昆虫・・・ なんでも よいのだ しかし いつも それに 成り切れる事 はないだろう。私であること、私が私の身体であること 肉であること と 鳥の〈間にある〉のだ。どちらにも バランスは 引き裂かれつつあるのだ。裂け目にある裂け目 裂け目が裂け目に喰らいつく!?絡らまる よじれる 痛み─分ける 刑苦 それが快楽?!ひき伸ばし合う もっと長い 瞬間!!もっと強く痛烈に そして繊細に(触れ合うこと)もっと易しく 優しく 柔らかく硬直せよ!と 誰れが言うのか? そんな風に われわれの日常はあるのではないか いつも すでに。そうして 私たちの日常は 己れの〈死〉と 他者の〈死〉を絡ませ 感染させ そして 記憶の闇へそれらの接触を葬り去りながら 生きているではないか。」(3月)。「〈踊る〉ことにおいてはどうだろう。例えば今日 ピエールのソロを振り付ける。しかし私がすでに振り付けを放棄した振り付けをしたいと考えているのだが〈錯乱〉という言葉─状態を〈鍵語〉としてはじめた。ピエール自身の錯乱のイメージを踊ってみる。どうぞご自由に、ご勝手に である。即興 試み一番である。何も踊ってみなければ 見えてこないから 形のないところに 形を与えてゆく作業なのだ。そしてピエールの最初 試みのNo.1は成功したかどうか?それは 振付というか Directionを握っている私の判断が間違わなければ 間違いのない方向へ進化してゆく筈だし、それを間違えれば ただの平凡な〈錯乱〉の演技にとどまってしまうであろう。が、その差異とは何か?私たちは〈錯乱〉に真実があるとでも思っているのか?(中略)ピエールの最初の即興で踊られた錯乱のフォーム、そして錯乱するために彼が準備した内的─外的緊張(心の状態)について批評する。むしろピエールの設定が平凡であること。〈錯乱〉を踊ってみている という 錯乱のrepresentにとどまってしまうこと。変形されたフィルムを錯乱を表現しようとして踊られた錯乱の速度は 錯乱する速度にとどかない。なぜか?錯乱していないからだ。ピエールの肉体は 錯乱する肉体にとどこうとして さらに 錯乱しようとしている肉体になるのだ。だからそれを止めること。速度を変換すること。そして、フォルムについて さらに 敏感になること。速度は 息を乱さない程の低速に集中させること。そのことでフォルムの変形は さらに強直されるだろう。─ 速度は息も乱さぬ程の低速に集中させること。低速とは何か?速度の〈外〉への逸脱である。時間の〈外〉が瞬間であるなら 〈瞬間〉への逸脱である。(後略)」(3月 un coup de donのクリエーション中の日記)。