日記

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年度

2013

内容

2月20日から4月12日までの日記。CNDCアンジェ(フランス)でのティーチングの記録。〈事件=出来事〉〈アンニュイの批評性〉〈生成変化〉〈不可能性〉〈死を踏む〉〈無為〉〈彷徨うこと〉〈死〉〈踊りとは自ら手を下さずに死ぬ方法なのだ〉〈痕跡としての肉体・身体「エクリチュール」〉などをテーマにワークショップ進め、生徒たちは各自の創作に入る。「やることは すべて或る種のヒントである。教師→生徒の関係の矢印を他・多方向へ放つのは生徒たちなのだ。〈散種スル〉タネを蒔く?そこにあるカタチや動きは最小限のものであり〈カタチ・動き〉を通じて多の・他の 新たなカタチ・動きへ接続するためのものなのだ。」(2/20)。「このままでは、とてもおとなしい ’evening’である。何かが足らない!? ’悪’ではないか。例えばドラッグ漬けの踊りを踊るというようなアイディアが誰れからも出てこないのは ’アンニュイ’という即興のクラスでの課題に押し込まれてしまった所為であろうか。ヒップホップ、ラップのスタイル、FunkやPunkのスタイルだって、反抗や抵抗のスタイルとして出て来たのだけど 、あっという間に時代の思潮みたいに消費され 安全なものに 樟脳をかけられ消毒されてしまう。悪と言わないならば’毒’である。消毒可能で・・キケンな水銀は禁止されたが・・消費される 消毒される そうされないための方法・技術として「ダンス」が探求される必要があるだろう。ダンス(の狂気)はバッカス祭や天岩戸のストリップティーズのものである。闇は太陽に敵雨・可能うのである。太陽は、光は、闇に嫉妬して顔をあらわす。それが権力の メディアの罠である。いつの頃から、権力の側に宮廷の ’雅’の技・様式として取り込まれ、その牙と毒を抜かれたか?いつの時代にあっても、時流─時の流れの権力の〈外〉に 別の〈流れ者〉〈ならず者〉があらわれては消えてゆく。小泉義之だったか 松田修の ’星’ が犯罪者を指すようになった由来について書いていたが・・・。 10分は短いがダンサーにとってエッセンスの呈示が可能なのだ!!ひとつでよいのだ!それが星である。’怒り’がないのであろうか?(光が)(後略)」(3/6 アンジェ 1/9-8/10の日記帳に書き直したものがあったのでそれを採用した。)その他「Sister Morphine」の振付に関するイメージ、チラシ原稿、スウェーデンのWS、吾妻橋ダンスクロッシングのことなど多岐に渡る記述あり。